sweet cafe@indigo liner(インディゴライナー)※3rd blog

いらっしゃいませ。カフェという名のブログです。
ごゆるりと御覧くださいませ。
掲載画像等の無断転用はダメですよ。

ニッサン ローレル C32

2014年11月12日 | クルマネタ
今から30年前の1984年、日産のアッパーミドルカーのローレルは通算5世代となるC32型に世代交代を果たしました。過去に撮影したネタから出題します。

1968年に初代モデルが登場したローレルですが、ヨーロッパ調に振られたりアメリカンに振られたり演歌調(?)に振られたりと激しい変化に富んでましたが、当モデルは直線基調のスタイリングで豪華に重厚に装いました。一方で見た目は古典的ながらメカニズムは大幅に一新され、ローレルの歴史上でもある意味重要なモデルチェンジといえました。

文章だけでも読む気がおきないでしょうから、まず最初に前期型の画像を二点ほど。

2000メダリスト、2006年5月撮影。


V20メダリストターボ、2006年6月撮影。


見てのとおり真四角で、好みは分かれるかもしれませんがいかにも高級車らしいスタイリングといえます。ツートンカラーもお似合いです。

フロントにエンジン積んでリヤを駆動する、いわゆるFRの駆動方式は踏襲されてましたが、ステアリングはボールナットからラック&ピニオンに変更、上位モデルのサスペンションは4輪独立懸架が今まで同様採用されてましたが、スーパーソニックサスペンション(電子制御サス)も一部に採用されました。

変化が大きかったのはエンジンで、新世代の直6となるRB型がこのローレルに初めて搭載され、その後スカイラインにも搭載、以降2000年代初頭まで日産の主力エンジンの一員として君臨しました。なお、ローレルに搭載されたのは2リッターのRB20Eでした。
一方でハイパワーモデルにはセドリックと同じ2リッターV6ターボのVG20ETが搭載されたのでした。つまり、同じ2リッターの6気筒ながら直列とV型の2種類が混在してたんです!今にして思えば不可解ともいえますねえ…。
その他、1.8リッター直4(CA18S、タクシーにはLPGもあり)、2.8リッター直6ディーゼル(LD28)もありました。



1986年10月にマイナーチェンジが実施され、外観のスタイリングは手直しされ、前期型よりクリーンな出で立ちに変身しました。
メカニズムも注目点がありました。それまでのローレルエンジンはシングルカム(SOHC)だけでしたが、後期型ではツインカム(DOHC)が遂に登場しました。
スカイラインに先行して搭載された2リッター直6ツインカムターボのRB
20DETです。これで一気に高性能化が進みました。しかし、前期型から用意されてたシングルカムのターボはV6でツインカムターボは直6…、う~む、なんか不思議です。なお、姉妹車のR31スカイラインにはV6は存在せず、NAもターボもシングルカムもツインカムも関係なく直6で統一されてました。

後期型も画像を並べます。
2000メダリスト、2006年1月撮影。


グランドエクストラ?メダリスト?アルミホイール履いてますが、しかし、フロントグリルにエンブレム無いし…。2008年4月撮影。


2000ツインカム24Vターボメダリスト、2010年5月撮影。BBSのアルミホイールがとてもお似合いです。



上記画像はすべて4ドアピラーレスハードトップですが、ドアにサッシの付いている4ドアセダンも用意されてました。販売の主力は圧涛Iにハードトップばかりでセダンは法人需要がメインでした。
近年はセダンはほとんど見かける機会がなかったのですが、それでも1枚だけ後期型を撮影してました。
グランドエクストラ、2007年3月撮影。


1989年初頭に次世代のC33型へモデルチェンジを実施、それ以降のローレルはハードトップのみのラインナップとなりました。しかしながらタクシーなど営業車仕様は引き続きC32のセダンが継続生産され、クルーが登場する1993年夏まで地味ながらもロングセラーだった事を最後に記しておきます。
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トヨタ マークⅡ 30系/40系

2014年11月10日 | クルマネタ
コロナとクラウンの中間帯に位置したトヨタの中型上級車のマークⅡは1976年12月に世代交代を実施、通算3代目となる30系/40系へ移行しました。以後、1980年10月まで販売されてました。過去に撮影した画像を並べていきます。

最初に画像を一点ほど。セダン2000グランデ。2006年11月撮影。


当モデルでは画像を見てのとおり、全体的にボクシーなフォルムとなり、顔つきも丸目2灯のヘッドライトに(内側の四角いランプは車幅灯)独立して配置されたフロントグリルなどの影響でまるで英国車風に、クラシカルな雰囲気に変身しました。これが3代目モデルを強く印象付ける要素にもなっています。

ただ、メカニズム面は大きく手が入れられ、シャーシはほぼ全面的に改良され、上級グレードのサスペンションはリヤも独立懸架に、すなわち4輪独立懸架が採用されるようになりました。ブレーキも4輪独立懸架仕様は4輪ディスクが奢られるようになりました。
エンジンは2リッター直4OHC(18R-U)、2リッター直6OHC(M-U)、2リッター直6OHC、EFI(M-EU)、さらに3ナンバー登録となる大排気量の2.6リッター直6OHC(4M-U)が搭載されたのが当モデルの特徴でしょうか。遅れて廉価版の1.8リッター直4OHV(13T-U)も追加されました。
ボディは4ドアセダン、2ドアハードトップ、ワゴン、バンを設定しました。そうそう、上級グレードとなる『グランデ』も当モデルから登場、以後、最終型の110系まで引き継がれます。

画像掲載を続けます。
ハードトップですがグレードがよく分かりません…。グランデかLGあたりか…。2006年5月撮影。


セダン2000グランデ。2009年4月撮影。


セダン2000グランデ。2010年5月撮影。


セダン2000GL、2011年5月撮影。


掲載画像はすべて1978年8月にマイナーチェンジされて登場した後期型になります。また、すべて掲載画像すべて大型の衝撃吸収バンパーが装着されてますが、これも後期型からの装備です。

なお、排ガス規制の関係で頻繁にエンジンの改良が続いてましたが、モデル途中に2.6リッターはEFI化(4M-EU)されたり、2リッター直4はエンジンが換装(18R-U→21R-U)されたりしました。最終的にガソリンエンジンは昭和53年規制をクリアするようになりました。それと、マークⅡ初のディーゼルエンジンが登場したのもこの代からで2.2リッター直4OHC(L型)が搭載されました。
あと、ミッションは当初は4速MT、5速MT、3速ATでしたが、途中からクラウンと同じく4速ATが設定されるようになったのも注目でした。オートマの多段化を推進するキッカケになりました。


やがてマークⅡは3姉妹化されますが、2番目の姉妹となるチェイサーはこの代から登場しました。マークⅡに少し遅れること1977年6月に送り出されました。
トヨペット店で販売されるマークⅡに対してチェイサーはオート店(現ネッツ店)で扱われ、マークⅡよりややスメ[ティなキャラクターが与えられました。
併せて画像掲載します。2005年3月撮影。


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トヨタ アバロン/プロナード

2014年11月09日 | クルマネタ
前回のローズライナー20周年記念祭で画像をガサ入れしてたら、トヨタのアバロンの画像があったのでネタにしてみましょう。併せて後継モデルのプロナードも出題します。

アバロン/プロナードは北米市場向けに開発されたクルマで、生産は北米のTMMK(トヨタ・モーター・マニュファクチュアリング・ケンタッキー)で生産されてました。日本では逆輸入車として販売されてました。

どんな位置づけのクルマだったのかということで、まずは前史を振り返ってみます。
1990年代初頭、北米におけるトヨタブランド(レクサス除く)の最上級セダンとしてクレシダ(クレシーダ?)が存在してました。これはマークⅡセダンの北米仕様車でした。

画像は日本国内のマークⅡセダンですが、クレシダはこれをベースに大型の5マイルバンパーの採用など外観を差別化、エンジンも2リッターはなく排気量の多い3リッターのみでした。
しかしながら、日本市場向けに小型車(5ナンバー)規格で設計された車体ではフルサイズのライバル車に比べると物足りず、さらにFRの駆動方式ゆえ室内も狭くパッケージングもいまいちでした。よって、1992年モデルで終了となりました。


そこで後継モデルは北米市場に特化した地産地消を目指すことになりました。そうして生まれたのがアバロンでした。1993年に北米で販売されました。

後継モデルといってもマークⅡベースのクレシダとはまったく別物でカムリ系をベースに開発、よって駆動方式もFFとなり、クラウンを上回る大柄な車体サイズに生まれまわりました。よってパッケージングは大きく改善、広大な室内空間を手に入れることが出来ました。エンジンはカムリ系同様に3リッターV6(1MZ-FE)を搭載しました。
目論見どおりヒットしてカムリとともに北米市場での主力車種として君臨することに成功しました。

日本国内では遅れて1995年に輸入販売が開始されました。北米ではファミリーカーの位置づけでしたが日本国内では大型の車体ゆえか豪華に仕立てられ高級サルーン的な位置づけとなりました。北米向けにはコラムシフト&フロントベンチシートの6人乗りもラインナップされてましたが、日本向けはフロアシフト5人乗りのみでした。日本国内での販売はトヨペット店でした。ゆったりとした室内空間や大らかな雰囲気などいい意味でアメリカンな雰囲気のクルマで評価も高く、当初はまずまずの販売実績でした。
といってもミニバンの台頭によるセダン離れの影響も出てきたのと、価格帯がマークⅡやクラウンと重なってしまい、それらに比べると機能優先で華も欠けてた感もあり、やがて販売は低迷、1999年で日本での販売は終了となりました。いいクルマだったんですけどねえ…。


2000年にアバロンは2代目へとモデルチェンジを実施しました。機構面は初代からのキャリーオーバーですが、シンプルだった初代に対して、やや抑揚の激しい外観デザインに変身、北米市場を重視して一層大型化されました。初代と同じく日本でも輸入販売されました。

ただし、日本国内向けはプロナードへと名称変更されました。併せて販売店もトヨペット店ではなくビスタ店に変更されました。これはイメージ一新ならびにビスタ店のテコ入れが目的だったと思われます。
初代アバロンよりも高級志向を強め、広大な室内空間を武器にミニバンから卒業するユーザーをターゲットにした販売戦略で登場しました。今度は北米向け同様にコラムシフト6人乗りもラインナップされました。
しかしながら、もはや大型FFセダンという市場は日本国内では限られており、初代アバロン以上に路上で見かける機会が少なかったです。2004年にビスタ店がネッツ店に統合されるタイミングで日本国内でプロナードは終了となり、以降後継モデルは登場していません。

一方でオーストラリアでもアバロンは販売されてましたが、やがてこちらはカムリのオーストラリア仕様であるオーリオンへバトンタッチされました。

なお、北米では2005年に3代目アバロンが登場、2012年には4代目が登場して、現在に至っています。
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ローズライナー20周年祭

2014年11月05日 | バスネタ
広島市と福山市を結ぶ高速路線バス、ローズライナーですが、1994年3月に開業して現在に至るまで運行を継続、本年で運行開始20周年を迎えました。


ここでは、全部はキリがないので一部だけですが車両の画像を並べて、大まかではありますが軌跡を辿っていきましょう。

1993年に山陽自動車道の広島県内の区間が全線開通、そのため広島と福山を結ぶ高速路線バスの機運が高まったのでした。同区間はJRの在来線/新幹線とモロに並行して、所要時間では新幹線に劣りますが、低廉な運賃と広島市内中心部の紙屋町(バスセンター)に直行できる利点を強みに生かしました。さらに1日36往復の高頻度で使い勝手の高い運行本数、JRの駅から離れた郊外にもバスストップを設けて需要を幅広くカバー、併せて自家用車のための駐車場も設置してパーク&ライドシステムを構築。車両もバラを描いた専用カラーで県内路線ながら車高の高いスーパーハイデッカーを採用し車内設備もトイレや給湯器の設置などプレミアム性を打ち出しました(給湯機は後年廃止)。
ハードとソフトの両面からの緻密な戦略が功を奏して、運行開始直後より根強い需要に支えられるようになりました。
山陽自動車道の渋滞などで定時性が必ずしも確保されないのが悩みではありますが、現在も両都市を結ぶ交通機関として、そしてバスならではの強みの部分も少なくなく、高く評価されています。全国の高速路線バスの歴史に残る快挙となりました。

中国バス、鞆鉄道、井笠鉄道、広島交通の4社共同運行でスタートしました。後に一時期中国JRバスが参入した時期もありました。2012年10月に井笠鉄道の事業廃止に伴い、現在は中国バス、鞆鉄道、広島交通の3社での運行となっています。

このローズライナーの成功と実績により広島県東部の各地と広島市を結ぶ高速路線バスの開設の機運が高まり、中国バスと広島交通の2社を軸に府中線『リードライナー』、尾道・因島線『フラワーライナー』、甲山・上下・甲奴線『ピースライナー』が相次いで運行開始されるようになりました。


まずは運行開始時に導入された車両を。前述のとおりスーパーハイデッカーで福山の市花のバラを派手に描いた専用カラーが施されました。なお、型式や社番は割愛します。

中国バスから。日野といすゞが採用されました。
福山22く1325、日野セレガGD、1995年。


福山22く1270、いすゞスーパークルーザー、1994年。


鞆鉄道です。こちらは三菱ふそうが採用されました。
福山22く1265、三菱ふそうエアロクイーンⅠ、1994年。


井笠鉄道はいすゞ車となりました。スーパークルーザーのシャーシに井笠が好んでた富士重工の車体が架装されました。
福山22く1263、いすゞLV/富士7S、1994年。


福山22く1112、いすゞLV/富士HD-Ⅱ、1991年。貸切から改造された車両です。


広島交通は日産ディーゼル(現:UDトラックス)に西日本車体工業(以下、西工)の車体が架装されました。
広島22く3882、日産ディーゼルRA/西工SD-Ⅱ、1994年。



2002年から2009年にかけて中国JRバスが1往復のみ参入しました。
広島200か433、三菱ふそうエアロバス、2002年。

これは広福ライナー(福山・広島⇔福岡)の福山発着便を運行するにあたり、広島~福山間の車両回送を兼ねて営業運行したものでした。



比較的近年まで上記の初期の車両も健在でしたが、年数の経過とともに新陳代謝が進むようになりました。また、合理化も進み、車両仕様ももスーパーハイデッカーからハイデッカーになり、他路線での共通使用も念頭に入れた結果、各社の標準カラーの車両も運用に就くようになりました。それと、2012年に井笠鉄道が事業廃止となり、同社分は中国バス(井笠バスカンパニーも含む)がカバーするようになりました。

ここからは、2014年現在見られる2世代目以降の車両を掲載します。

中国バスから。
福山200か141、いすゞガーラ、2001年。


福山22く1478、日野セレガFD、1998年。

井笠鉄道から引き継いだ車両です。なお、井笠鉄道時代当初はは大阪線専用車でしたが後にローズライナーに転用されました。

近年は専用カラーによる専用車の導入がなく、他路線での共通使用を前提に中国バス標準の高速カラー車の導入が進みます。以下、必ずしもローズライナーの専属ではありませんが2点ほど。
福山200か423、ヒュンダイユニバース、2010年。

中国バス初となったユニバースです。当初は大阪線専用でしたが現在は広島でもよく姿を現します。

福山200か566、ヒュンダイユニバース、2014年。

こちらはマイナーチェンジ後のモデルで、9月頃に導入されたばかりの新車です。

鞆鉄道の車両を。
福山230あ187、日産ディーゼルスペースアローRA/西工C-Ⅰ、2005年。


福山230あ188、日産ディーゼルスペースアローRA/西工C-Ⅰ、2005年。

上の187と同型ですが、こちらは鞆鉄道の標準カラー。

福山230あ328、三菱ふそうエアロバス、1998年。JR四国バスからの移籍車だそうです。昨年初夏に導入。


広島交通の車両を。
広島200か734、三菱ふそうMS/西工C-Ⅰ、2005年。

3つ上に掲載した鞆鉄道の日産ディーゼルと見た目は同じですが、こちらは三菱ふそう。エアロバスのシャーシに西工の車体を架装。

広島200か878、三菱ふそうエアロバス、2006年。

同じふそうでもこちらは『ふそう純正』のエアロバス。

広島200か1339、三菱ふそうエアロエース、2010年。


広島200か1877、三菱ふそうエアロエース、2014年。

専用カラーは施されず、他路線との共通運用です。


かなり駆け足となりましたが、ざっとまとめてみました。広島から福山、あるいは福山から広島への移動の際にはローズライナーを利用されてみてはいかがでしょうか。
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記憶のバイブル

2014年11月03日 | Live(ポップ/歌謡系)

11月1日、広島市中区中町のライブジュークにてシンガーソングライター、井上昌己さんのライブが開催されたので足を運んできました。



昌己さんは今年は広島でのライブは2回目となりました。前回は6月に開催されましたが諸事情で行くのを断念せざるを得ませんでした。当分ないと思ってたら、わずか4ヶ月後にまた広島で開催される運びとなりました。
記憶のバイブル!と命名された今回のライブはバンドメンバーなしで彼女オンリーのピアノ弾き語りスタイルでした。ワタシは今回で昌己さんのライブは4回目となりましたが、ピアノ弾き語りは初めての拝見となりました。東京、大阪、名古屋では開催されたそうですが、このスタイルは滅多に見られない企画との事。そして、ピアノ弾き語りは昌己さんの原点だそうです。

よく考えたら、そして昌己さん自身も仰られてましたが、ジュークでの昌己さんのライブは比較的陽が高い時間帯に開催されてましたが、今回は遅い時間帯での開催で、開始時間にはすでに陽が沈み、ステージ後方には夜景が広がってました。
夜景が見えるのはジュークならではですが、そんな非日常のドラマチックな雰囲気の中、昌己さんはひとりでアコースティックピアノを奏でながら歌われました。優しいヴォーカルに乙女心たっぷりな繊細な楽曲、流麗なピアノの音色であたたかく包んでくださいました。選曲はバラード系が中心になりましたが、ファンからのリクエストが反映されたそうです。また、数曲ほど他アーティストのカバー曲も歌われました。
たったひとりというシンプルな編成ゆえ、適度な緊張感が漂ってましたが、昌己さん自身のゆったりした人柄ゆえ、のんびりまったりした空気感の和んだライブとなりました。とてもアットホームな空間でした。
今年でめでたくデビュー25周年を迎えられました。これからも末永い御活躍を祈るばかりですが、とても若々しく年齢を感じさせない可愛らしさいっぱいでした。

そうだ、昌己さんは広島のおとなりの愛媛県、八幡浜市の御出身だそうで、その縁もあり『やわたはま応援隊』に任命されたそうです。先日、八幡浜市役所にて任命式が開催されたとの事でした。全国に向けて八幡浜市の情報発信や観光振興という新たな役割も期待されるようになりました。
名刺もちゃんと用意されます。



終了後は物販でアルバムを購入、今年発売されたベストアルバム〔Welcom to my home〕をチョイスしました。物品購入者はポストカードのプレゼントも。
サイン&握手会もあり、少しながら挨拶しました。


また広島においでくださいませ!おつかれさまでした。なお、翌日の11月2日は速攻で東京へ戻られて、同日晩に横浜でゲストながらライブに出演されたようです。パワフルですねえ~。

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