先日区役所で、Iさんと出会った。まったくの偶然であった。ほぼ10年ぶりだった。
当時の私たちは、異なる会社だったが、それぞれ責任を負わされた立場だった。その責任をまっとうする共通の目的のもと、同じような立場の数人と、幾度も論議を闘わせた。
Iさんは舌鋒が鋭い論客だった。共通の目的と言っても、会社が異なれば、利害が対立することも多かった。お互いに引いてはいけない立場であった。
だから激しい議論にもなった。感情的になったこともあった。しかし、最後は意見の統合ができた。
そのころの私は、立場上、まとめる役割を担わされていた。利害が反する場合も多く、収拾がつきそうもない事態にも陥った。
しかし幸いなことに、分裂することもなく、なんとなく結論が導き出された。
各自に少しずつの不満が残ったが、それなりの結論がえられた。不満を分け合ったような気分だった。
結論が出た当時は、参加者の人柄に負うところが多かったと思っていた。しかし、今の私は、それだけではなかったと思っている。その思いは、ほぼ信念に近い。
多数決によって決さなかったことが、結論を導き出せた理由の一つだったのではないか。
不完全な人間同士が、利害を背負って対立していたのだ。少しずつ意見は異なっていた。
限りある時間の場合は、多数決が能率的な手法のはずだ。文句の言えない手法だ。
たとえ多数決には馴染まない議論だったとしても、多数決で決めてもよかったはずだった。
だが私たちは、多数決を避けた。徹底的に議論をした。時間切れを気にしながら、議論を繰り返した。
その過程で、それぞれが主張する自説の角が、少しずつ落とされていった。他の人たちの主張にも理解が及んだ。
結果として、予定よりも早く、結論を得ることができた。みんなに少しずつの不満が残ったが、納得できる不満だった。
不完全な私たちだからこそ、多数決で決めようという意見もある。
しかし私は、不完全な私たちだからこそ、徹底した話し合いで決する意味もあると思っている。
そこには時間の感覚が必要だ。時間の限度に共通認識を持てるなら、多数決によらない解決もあるのではなかろうか。
早く決めたい人と、出来るだけ決めたくない人の議論では、建設的な結果は望めない。
国民の幸せと国家の安定が共通の目的なら、議論のしようもあるのではないか。
今の与野党の国会対策に、不毛の論議を感じる。国民をたぶらかすための演技とすら映る。不幸な話だ。
日本には、小選挙区が馴染まないのかもしれない。
「和を以て貴しとなす」や「空気を読む」にも、それなりの意味合いがありそうだ。
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