新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

強い志に憧憬

2008年01月06日 10時19分48秒 | 身辺雑記

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公園のマンサク 2007.1.27

 市民の森公園に、マンサクの大樹がある。狭いところにある木なので、全景を撮る気にはなれない。枝振りや花の咲き具合をみて、なんとか折り合いをつけている。
 掲げた写真は、昨年1月撮影のもの。今年はまだ行っていないが、その内に面会して来ようと思っている。

 70歳もとうに過ぎた今、いつの間にか、自分の中で何かが変わって来ているように思える。

 何がなぜ変わったのか、はっきりしていない。

 例えばの例だが、小説の好みにも現れている。

 私は太宰治が大好きだった。あの繊細な優しさに惹かれた。

 今も好きで、時折は読み返しているが、若い頃のように、血道をあげるほどではない。

 大衆作家と言われた山本周五郎も好きな一人だ。

 大衆作家と言われようが、中間小説と見下されようが、私は読み続けた。やはり、今も愛読書の一つだ。

 その同じ作家の作品でも、手に取る本の傾向が変わってきた。

 以前は、庶民の日常の哀歓の中の「優しさ物語」に強く惹かれた。

 例えば、山本周五郎で言えば、「さぶ」や「おたふく物語」など。

 ところが現在の私は、「樅の木は残った」や「ながい坂」に手がいく。

 自分をとことん「無」にして、お家の大儀につく主人公の、あの「強い志」に、大喝采を送りたい。

 城山三郎の「男子の本懐」は、この頃になって好きになれた。今までは、立身出世物語のようで厭だった。

 つまり私の趣味や考えの傾向が、「優しさ」のみに終始する世界から、「立場を生きる強い志」の世界に移ったようなのだ。

 方向は少し異なるが、北方謙三や大沢在昌のハードボイルドなど、以前なら手にも取らなかった。

 今はこれらも愛読書の中に入っている。

 どうやら、「大儀に生きる強さ」を求めているようだ。

 残り少ない人生をわが身に感じ、もはや自分ではなし得ないものを、他に求めているのかもしれない。

 決して優しさが不必要と言っているわけではない。

 優しさは必要とか不必要とかを論ずる以前の、人間が当然備えているべき血肉同様のものだ。 

 つまり、根底に優しさを十分に備えつつ、大儀に従う「強い志」に生きる生き方に惹かれているのだ。

 政治家の世界で言えば、「國をどのように作るか」という「志」に生きてほしいと思う。

 官僚の不作為や誤謬には、断固として鉄槌を加える非情さがあっていい。

 これは65歳のころからの傾向なのだが、原因は自分でも分からない。

 第一線から引退し、「志」が萎えてきたことも理由の一つかも知れない。

 第一線時代は、優しさに偏ったつもりもなく、非情な大儀についたつもりもない。

 心ならずも襲ってきたアメリカ型大競争時代に巻き込まれ、「会社は誰のものか」などに振り回されながらも、「情」と「理」のバランスを考えながら、闘ってきた自負はある。

 もちろん、評価は私がすべきことではない。

 いずれにしても、趣味の上でも変化してきている。

 老境心理学的にでも、教えて頂きたいとすら思っている。

 まさか痴呆の一種ではないでしょうね。

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コメント (18)
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