繰り返しになるかもしれない。大学の恩師である鈴木芳夫先生から、教員になってからの話であるが、有機農業に私がのめりこんでいた頃、水論争があって、水の分子が小さくなって生体において吸収しやすくなる、いわゆるクラスターが小さくなる、比率的には1パーセント以下の部分であるがという話をしていたら、鈴木先生はいきなり{君は大学の時、水はH2Oだよな、そのように教わったはずだ}と語気を強められた。その後神崎の酒屋さん寺田本家でも電子水を酒造りに使用し敷地の床下に大量の炭を敷き詰め安定した菌の固定に努力している。あるいは神崎の隣町でハスを栽培する有坂さんは、岩澤信夫さんを師事し、ウイズウオーターを使い光合成細菌を培養、それをハスに使うことでハスの日持ちが良くなり、ハス根の酸化ー表面の黒くなるのを抑える。など栽培の環境的な面で水の果たしている役割は大きい。この水を開発した矢尾板満さんはこのウイズウオーターを人間の健康にも役立てている。岩澤信夫さんはたばこのニコチン成分を抑えるということで1滴フィルターにたらすことをしていたが。これは吸う量の問題もあった。風呂で1カップ5cc入れると体の血行が良くなり痔が治まる。ごはんを炊く時入れるとふっくら炊ける。さらに矢尾板満さんはこのウイズウオーターをベースにバチルス菌の培養をして人間の免疫力を高め健康な人でも飲用することで睡眠が十分とれるという効果をだしている。岩澤さんに言われてさまざま試しているがこのウイズウオーターとイオン水は確かな効果があり、皆さんにすすめられる。
東京教育大学農学部に在籍している頃駒場にいたが、朝起きるときれいなはずの空から油煙の粒が下りてくる。都会での生活はこれまでにしたい。自分の子供を育てていく環境として東京は選びたくない、地方へ行きたいという心境であった。本心としては千葉大の園芸学部の花キを選択し、教育大学で岡田正順先生を選んだのも、三河田原の伊良湖で電照菊の技師として働きたいという夢があったからである。しかし夢かなわず、マスターの院に1年残り受験の時期を伺っていた。そこに旭農業高校の、大学時代の同期生の梶谷正義先生から果樹の先生がいなくなり欠員が2つあいているので来てくれと誘いがあり、赴任することになり、それからローカルが良いと35年間居座ることになってしまった。1979年から現住所に居を構え、干潟町に100坪の菜園を1984年頃から所有している。しかしその菜園も現在は管理維持が大変になっている。主に小麦を育て、菜の花いっぱいの楽園を夢見ていたがコメ作りの時間、体力の衰えで難しくなっている。今年も正月休みぐらいと一日から刈り払いで篠だけを切り始めている。写真はつる性の草に覆われる菜園と百舌鳥のいる環境です。
私は1941年の生まれ、戦争が始まる直前の10月25日である。4男坊の双子で相棒は知恩で私が報恩である。長崎で父親が三菱重工で当時魚雷を作り近くの湾に運び演習をしていたアメリカ軍の標的を受けながらの演習で命の危険を受けながらであったので、息子にも祈りを込めて私の名前が付けられた。たまたま父は原爆が落とされた時工場に居なかったので命拾いしたが、その後半年残務整理で残ったため愛知の田原に戻ってから白血病に罹り、出血した。しかしその後は教職につき89歳までいきられた。幼少の頃3歳の母親と乳母に抱かれる3歳の記念の写真が残っているが、乳母は原爆で命をたたれた。その双子の兄知恩は疫痢で3歳でなくなった。田原での戦後の生活は、兼業でわずかな農地で麦とサツマイモを育てわたしも手伝いをしながら自然とのかかわりを身に着け、農薬を使わないで作物を育てるスタンスが育っていった。農薬を使わない気風が育つ環境は大学が千葉大園芸学部で教わった先生が昔堅気の先生で堆肥を舌で舐めて確かめる習慣があったために水銀中毒でなくなった。またその後マスターの東京教育大学でもバイテクの盛んな時代、ホルマリン消毒で肝臓をやられた仲間が出たり、農業大学校で有名なバイテクの先生が在籍中になくなった。
千葉大時代教養部の時代生態学の沼田真先生に出会ったことも、農業技術に対していわゆる近代農学と離れた視点で技術を模索できる環境にあったものと思っている。
忙しさにかこつけて昨日になって年賀状を投函するというありさま、農を語る余裕がなかった。今朝の6時のテレビでBSで辰巳芳子さんの大豆100粒運動、天のしずく、の一部を拝見、改めて岩澤信夫さんの{へそ曲がり」の大豆栽培をこの大豆づくり運動にからめられれば小中の学校教材として面白いし子供たちの好奇心を高めることになると確信できる。このことは私自身の課題でもあるが大豆の種を並べその上に不織布をのせ土で覆う。種が発芽を始めるが光線に当たらないためにモヤシ状に硬く伸びる、その後太陽の光にあてることで茎が緑化する。その後根を切り、挿し木すると種子根と同じ力を持った新しい根が3本、4本と再生してくる。このことは移植による種子根が抑えられるためという単純な原因なのかもしれないがとにかく比較してみるとはっきりする。これを機械化して大量に育てることは手間のかかることであるが、大豆5キロ、10キロレベルの自給的な範囲なら無農薬で育てた、きなこを作ったり、最終的には味噌づくりまでたどり着ければ最高な楽しみとなる。コメと合わせて不耕起栽培無農薬が可能である。さらに岩澤さんは麦だって移植栽培をすれば多収につなげるというので、あくまでも実験であるが、すでに7,8年挑戦をつづけている。
新しい年を迎えるにあたり、食べ物とか水、健康法についても考えを紹介したい。