農を語る

自然にやさしい不耕起栽培

まずは出生の秘密から

2015-01-02 10:16:03 | 日本不耕起栽培普及会

私は1941年の生まれ、戦争が始まる直前の10月25日である。4男坊の双子で相棒は知恩で私が報恩である。長崎で父親が三菱重工で当時魚雷を作り近くの湾に運び演習をしていたアメリカ軍の標的を受けながらの演習で命の危険を受けながらであったので、息子にも祈りを込めて私の名前が付けられた。たまたま父は原爆が落とされた時工場に居なかったので命拾いしたが、その後半年残務整理で残ったため愛知の田原に戻ってから白血病に罹り、出血した。しかしその後は教職につき89歳までいきられた。幼少の頃3歳の母親と乳母に抱かれる3歳の記念の写真が残っているが、乳母は原爆で命をたたれた。その双子の兄知恩は疫痢で3歳でなくなった。田原での戦後の生活は、兼業でわずかな農地で麦とサツマイモを育てわたしも手伝いをしながら自然とのかかわりを身に着け、農薬を使わないで作物を育てるスタンスが育っていった。農薬を使わない気風が育つ環境は大学が千葉大園芸学部で教わった先生が昔堅気の先生で堆肥を舌で舐めて確かめる習慣があったために水銀中毒でなくなった。またその後マスターの東京教育大学でもバイテクの盛んな時代、ホルマリン消毒で肝臓をやられた仲間が出たり、農業大学校で有名なバイテクの先生が在籍中になくなった。

千葉大時代教養部の時代生態学の沼田真先生に出会ったことも、農業技術に対していわゆる近代農学と離れた視点で技術を模索できる環境にあったものと思っている。