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大森町界隈あれこれ(7) 大森町に住んで65年!(その6)

2006年04月09日 | 大森町界隈あれこれ 65年
JR大森駅付近の発展
東海道線の開通にあたり大森村の住民は、村の中心に鉄道が通るのを反対したため、大森町の西端を通る路線となり、現在のJR大森駅は大森区のはずれの北端に開設されました。
かっては、京浜国道の三叉路にあった大森区役所は、庁舎を現在の「大田文化の森」と呼ばれる場所に移転しました。昭和22年(1947年)には大森区と蒲田区が合併し、大森区役所は大田区役所となり、昭和36年(1961年)まで庁舎がありました。その後の大田区役所庁舎は、蒲田駅東口近くの場所に移転しました。
一般に、交通の便利な駅の近くから文化・経済の中心として発展していくのが歴史の流れです。JR大森駅の開設により、時代とともに大森の中心は、大森町から大森駅へと移って行きました。その歴史の変遷を、見てみましょう。
出典:大田の史話 大田区史編さん委員会 1988年、写された大田区 ~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館 1992年2月15日発行

東海道線開通
明治政府は、文明開化のさきがけとして、近代的交通機関である鉄道を建設することとなり、明治2年(1869年)英国から外債を得て着手しました。
初めの計画では、東海道の街道筋にそって品川から大森の海岸を通って川崎に出る予定でしたが、大森町の人々は大きな鉄の車にものすごい勢いで走られたら、稲の朝露が落ちて実りが悪くなるとか、馬車やかごの乗り手がなくなって街道がさびれると云って反対しました。したがって、当初の路線をやむをえず、当時の人家の少ない淋しいところであった、山王から新井宿、蒲田の水田の中を通る現在の路線となりました。
明治5年(1872年)5月に東京と横浜間を日本最初の陸蒸気が運転を始めたのが、東海道線のスタートで、東京(新橋)と横浜の間に、品川、川崎、鶴見および神奈川の四駅だけでした。

大森駅の開設
東海道線の開通前から、山王に鉄道建設の英国人技師の住宅がありましたので、鉄道開通後に現在の大森駅の南寄りに休憩所を作り、必要に応じて手を上げて列車を止めて乗り降りをしたそうです。
そのうち、不便なので休憩所を駅にすることになり、当時付近の人家は少ないし、新井宿の駅名では通りが悪いので駅から1キロも離れているのですが、「大森」の名をとり大森区最初の停車場が明治9年(1876年)にできました。
「汽笛一声新橋を はやわが汽車は離れたり 梅に名をえし大森を すぐれば早やも川崎の 大師河原は程近し 急げや電気の道すぐに....」
当時の鉄道唱歌(大和田建樹 1902年)にも歌えわれる、大森の梅の名所は大森八景園(1884年開園)だと云われ、東京郊外の名所としてしられております。
大森駅の開設により交通の便が良いこれらの地が、東海道線が全通する明治22年(1889年)頃になると、山王台地に政治家、実業家、高級官吏、将校などの住宅や別荘が建ちはじめました。明治37年(1904年)に蒲田駅ができ、近距離列車が通じるようになると、次第に住宅が増えてきました。
大森駅西口出改札所ができたのは大正2年(1913年)で、東口と西口が跨線橋でつながり乗客には便利となりました。大正4年(1915年)には、東京・横浜間に電車が運転され、地域の発展に一層拍車がかかりました。大正期後半になると、都市化の波が郊外に及び、いち早く住宅地に変貌しました。
このように、地形的には大森町の隣接地の新井宿と不入斗の両字であった所に開設して、名目的に命名された「大森駅」の周辺が、「軒先貸して母屋をとられる」形で「大森」の中心地となり、開発が進み経済・文化は大森町から大森駅周辺へと移って行ったのです。


大森駅西口

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