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大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第4編 配給生活談義 第1回

2008年08月17日 | 大森町界隈あれこれ 戦後史
kan-haru blog 2008

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昭和戦後史 第3編までの若山武義氏の手記の解説では、断片的にその時々の戦中・戦後の参考情報を記載しておりましたが、昭和戦後史 第4編の連載に当たり戦前から戦後時代にかけての大森町や疎開先での生活について、60数年を経ているの記憶は殆んど失念していますが、出来る限り想い出して経過順に整理して記録していきます。

千住から大森町への転入
大森町への転入は、1936年(昭和12年)の3、4月頃、東京都足立区千住寿町35番地から当時の大森区大森6丁目2654番地(拡大地図参照)に越して来ました。転入地は、父が勤務先の第1京浜国道から分岐した産業通りのすぐ先にありました。当時は大森区役所(現在の大森警察署)ビルの向かいに面した木造2階建ての1階が会社事務所兼社宅で、その1階の和室と台所に2階の和室が大森町での最初の住居地となりました。

 昭和16年大森区大森町地図と大森町会社事務所兼社宅(大森町拡大地図および転入地付近詳細地図)

大森町は大森区の中心地
このあたりの地形は、第1京浜国道と産業道路とのロータリーの付いた分岐点であり、この分岐点から北北東に旧東海道の三原通りが分岐しています。分岐点の南側は、国道が旧東海道上に敷設されて第1京浜国道となりました。当時は、まだ第2京浜国道は、存在していません。
分岐点北の旧東海道の三原通りを通らずに、第1京浜国道が分離して造られたのは、昭和初期以前には大森町一帯は大森区の中心地で賑わいを見せており、三原通り商店街は大森地区の繁華街で古くからの暖簾のある多数の商店が密集していたので、新設国道がルートを避けて造られました。

昔の大森は海苔の一大生産地
また、大森地区は江戸時代以前から、養殖海苔の一大生産地であり、1964年の東京オリンピックの間際までは生産を続け、海苔の品質は随一を誇り昔はお上に献上した実績があり、今日でも大森にはかなり多くの海苔問屋があり、高品質の海苔の加工・出荷が行われています。大田区には、東西に流れ東京湾に注ぐ3河川の内川、呑川、六郷(多摩)川があり、川の上流から流れてくる栄養分の含まれた水が、東京湾で養殖の海苔の生育に好適な環境で生産に恵まれていたのです。

このように、昭和初期の大森町は大森区の中心街であり、劇場、映画館や金融機関、商店や工場が連ねてあったところでした。なお、現在の第1京浜国道際の大森警察署は、三原通りにありました。
また、大森町を南北に貫通して運行する京浜急行電鉄の大森町駅は、戦前には山谷から大森山谷駅と称しており、環7通り際の平和島駅を元は学校裏駅と称していました。当時は、環7通りは未だ貫通していなく、第1京浜国道で終点の澤田通りと呼んでいました。


若山武義氏の戦後史手記(1946年記述) 配給生活談義 第1回

ヤミ生活
過般、食糧メーデーの時、赤旗を立てて押しかけた連中と食糧管理局の役人との押問答。「配給の二合一勺で生活してる」と答弁に苦しむ御役人、聞く方も聞く方だ。答弁する御役人も役目の上にさぞつらかろ。然らばこの十日、二十日、約一ヶ月の遅配、欠配に此の人方は何たべて居るだろうか、まさか空気と水とのみとは考えられない。或は、御役人と我々の量目は、同じ二合一勺でも量り方が違うのかしら、とにかく算術では割り出せない問題である。
お偉い方々は、家来眷族が唯々諾々と、セッセと運ぶから、お芋の煮えたも御存じあるまい。全くおうらやましい限りである。
去る四月の総選挙に、千人が千人の候補者は、「主食三合配給断行」と主張し、声をからしてどなった。但し己れが天下をとったら必ず三合配給するとは云わなかったから、ただ提灯をつけただけに過ぎない。
嘘も偽りもない、一日働くに四苦八苦、今日迄配給以外の物資で生きて来た事は事実である。大臣も、議員も、役人も、赤旗かついで純綿のおにぎりほゝばった人達も、共に云わず共に語らず。公然の秘密か、なんと称するか知らんが不思議の事である。
首相の宮様の仰せられし如く、我等国民は、ひそかにヤミでなければ生活出来ない事をよも否定する人はあるまい。

食糧供出
そこで昨年は空前の不作で四千万石を割ったとの公表である。供出以外に、日々夜々蟻の運ぶ如く汗を流して運んだ数量は、この四千万石の内に含まれてるのか、それとも落穂なのか。落穂としては、あまりにも莫大な数量と推想される。こゝで先ず生産農家、指導者の代表意見を聞くとしよう。

○ 第一に、我が郷土の上野南郷村長曰く
泥田の中の味を知らない役人には、この農民の気持を、素直に供出に持って行く「コツ」
を御存知ない。私はつくづく役人の頭の悪さを残念に思う。そこで、私は百姓の事は、増産も供出も村の自治体にまかせ、農民の自治性に訴えよと叫ばずに居られない。
 従来も政府は、すべての施策は目先の手しかうてなかった。農民も目先の利潤には敏いが、将来の見透しが利かない。これでは、陽と陽で相反発し合うばかりではないか。どちらか陰にならねば呼吸がピッタリしない。して見れば、実際作るのは百姓だから、当然百姓に自主性をもたせ、国家は受け身の立場になれば、百姓はぎりぎり一杯の手持ち残してさらけ出してしまう事請合だ。
 納得させて百姓の愛国心に訴えるのだ

 もう百姓は、お上の腹はすっかり判って居る。笛や太鼓では踊りはしない。
 もう一つは供出の値段だ。いも七貫匁割当てになったが、米がないので一貫匁喰べてしまった。そうして、一貫匁五円余りで買って来て供出した処、全部七貫匁の供出代金が五円に足りなかったと云う。こんな馬鹿の事を強いるから、百姓も自分を守る事に努力するが当然である。農家は米を作って喰べて余りを売って生計を立てる。だから、放っておいてもどうせ出すものを「出せ出せ」というたでは、殻を固くしてしまうばかりではないか。この心理は、心理学者にでも研究してもろう必要がある。
 亦私個人の考であるが、百%の割当てを九十%にして、残りを自由販売にさせる案だ。勿論無茶な闇値は禁止してやらせたら、滑らかに供出されて、生産意欲がぐんと向上すると思う
と。

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