kan-haru blog 2007 文人の石碑群
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鈴石伝説
磐井神社の霊宝に、鈴ヶ森の地名の由来となった「鈴石」があります。
鈴石の縁起は、幕命によって編術した山岡浚明の「武蔵志料」や大橋方長編の「武蔵演路」、岩井和三郎の「入新井町史」などの由来などによると、同工異曲に伝えられており、その要旨は、『神功皇后が長門国豊浦に舟を止めたとき、真砂の上に一つの神石があった。この神石を応神天皇誕生のとき産室に置かれた。その後、筑前国香椎宮へ納め置かれた。欽明天皇が豊前国宇佐宮に八幡大神を鎮座したときそこへ遷され、聖武天皇の時代に石川朝臣が宇佐宮へ奉幣のときに神勅によってこの石を授けられた。その後嫡孫の中宮大夫中納言豊人が武蔵国の国司として下向し荏原郡多摩川に居住し、この石を磐井神社に奉納した。石は鶏卵の形で色は青く、打つと鈴の音がしたので、鈴石といわれた。この石が磐井神社に鎮座したので、神社の地を鈴石森というようになった。』
・鈴ヶ森
品川区の旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地帯が、江戸時代に奥州街道の浅草小塚原と並んで、1651年(慶安4年)に間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さの二大刑場が開設され、1870年(明治3年)まで使われていた東海道品川宿はずれの、大井海岸ふちに置かれた仕置場が鈴ヶ森という名前で知られている刑場跡です。
大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。
磐井神社境内文人の石碑群
烏石の碑(拡大) 狸筆塚の石碑(拡大)
本社殿の右奥に石碑群(トップ写真参照)があり、この中に文人の石碑群が4基あります。この4基の石碑(大田区文化財)は、かって弁天池周辺にありましたが、神社の境内整備に伴って現在の場所に移されました。
石碑群の本殿側左端にある烏石(うせき)碑は、1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻したものです。烏石は、山型の自然石の上部に、墨絵の烏(からす)のような模様があるのでこう名付けられ、鈴石とともに社務所に展示(非公開)されております。
この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、文人の松下烏石(葛辰)が磐井神社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称したのだといわれております。
竹岡先生書学碑(拡大) たい筆塚の石(拡大) 江戸文人石碑群説明板(拡大)
烏石碑の左隣から順に、1786年(天命6年)の狸筆塚の石碑、1796年(寛政8年)の竹岡先生書学碑、1809年(文化6年)のたい筆塚の石で、いずれも文人たちが使用済みの古筆を埋め、その供養塚に建てた記念碑です。
磐井神社末社
境内の文人の石碑群の右手手前の神楽殿の横には、末社の海豊稲荷神社が合祀されています。
神楽殿 末社海豊稲荷神社 柵で囲われた笠島弁天社
また、境内社務所の左手には柵で囲われた場所に池があり、池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られております。
池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られている
笠島弁天社は、しょうしゃな社ですが東海七福神の弁財天で、鳥居、手水舎と石灯籠が整っており、大正期の社殿の柱には木彫りの獅子が見られます。
笠島弁天社殿 東海七福神の弁財天石碑
磐井神社夏祭り
夏祭りの磐井神社本殿
磐井神社の2007年の夏祭りは陰まつりにあたり、8月3~5日に行われ町内神輿は、向睦、北六南睦と八幡睦の三町会で渡御しました。
町会に戻る神輿 神社に戻って着た神輿
5日に、八幡睦の神輿が磐井神社に宮入りの様子を見てきました。
宮入りの神輿
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毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
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鈴石伝説
磐井神社の霊宝に、鈴ヶ森の地名の由来となった「鈴石」があります。
鈴石の縁起は、幕命によって編術した山岡浚明の「武蔵志料」や大橋方長編の「武蔵演路」、岩井和三郎の「入新井町史」などの由来などによると、同工異曲に伝えられており、その要旨は、『神功皇后が長門国豊浦に舟を止めたとき、真砂の上に一つの神石があった。この神石を応神天皇誕生のとき産室に置かれた。その後、筑前国香椎宮へ納め置かれた。欽明天皇が豊前国宇佐宮に八幡大神を鎮座したときそこへ遷され、聖武天皇の時代に石川朝臣が宇佐宮へ奉幣のときに神勅によってこの石を授けられた。その後嫡孫の中宮大夫中納言豊人が武蔵国の国司として下向し荏原郡多摩川に居住し、この石を磐井神社に奉納した。石は鶏卵の形で色は青く、打つと鈴の音がしたので、鈴石といわれた。この石が磐井神社に鎮座したので、神社の地を鈴石森というようになった。』
・鈴ヶ森
品川区の旧東海道と第一京浜国道が交差する狭い三角地帯が、江戸時代に奥州街道の浅草小塚原と並んで、1651年(慶安4年)に間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さの二大刑場が開設され、1870年(明治3年)まで使われていた東海道品川宿はずれの、大井海岸ふちに置かれた仕置場が鈴ヶ森という名前で知られている刑場跡です。
大森の不入斗村(いりやまずむら)にある磐井神社の別称を、鈴石伝説から鈴ヶ森八幡宮と呼び、地理的には隣接の品川区大井村の処刑場付近一体も含めて、鈴ヶ森と称したものと思われます。
磐井神社境内文人の石碑群
烏石の碑(拡大) 狸筆塚の石碑(拡大)
本社殿の右奥に石碑群(トップ写真参照)があり、この中に文人の石碑群が4基あります。この4基の石碑(大田区文化財)は、かって弁天池周辺にありましたが、神社の境内整備に伴って現在の場所に移されました。
石碑群の本殿側左端にある烏石(うせき)碑は、1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻したものです。烏石は、山型の自然石の上部に、墨絵の烏(からす)のような模様があるのでこう名付けられ、鈴石とともに社務所に展示(非公開)されております。
この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、文人の松下烏石(葛辰)が磐井神社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称したのだといわれております。
竹岡先生書学碑(拡大) たい筆塚の石(拡大) 江戸文人石碑群説明板(拡大)
烏石碑の左隣から順に、1786年(天命6年)の狸筆塚の石碑、1796年(寛政8年)の竹岡先生書学碑、1809年(文化6年)のたい筆塚の石で、いずれも文人たちが使用済みの古筆を埋め、その供養塚に建てた記念碑です。
磐井神社末社
境内の文人の石碑群の右手手前の神楽殿の横には、末社の海豊稲荷神社が合祀されています。
神楽殿 末社海豊稲荷神社 柵で囲われた笠島弁天社
また、境内社務所の左手には柵で囲われた場所に池があり、池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られております。
池の中央の島には末社の笠島弁天社が祀られている
笠島弁天社は、しょうしゃな社ですが東海七福神の弁財天で、鳥居、手水舎と石灯籠が整っており、大正期の社殿の柱には木彫りの獅子が見られます。
笠島弁天社殿 東海七福神の弁財天石碑
磐井神社夏祭り
夏祭りの磐井神社本殿
磐井神社の2007年の夏祭りは陰まつりにあたり、8月3~5日に行われ町内神輿は、向睦、北六南睦と八幡睦の三町会で渡御しました。
町会に戻る神輿 神社に戻って着た神輿
5日に、八幡睦の神輿が磐井神社に宮入りの様子を見てきました。
宮入りの神輿
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