富岡八幡の由来を「御由諸」から抜粋しますと、「1627年(寛永4年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。」とあります。
富岡八幡二の宮神輿の渡御り(神幸祭)は、永代通りの深川不動堂参道入り口付近で見物する予定で、途中伊能忠敬の銅像や15日の例大祭祭典に繰り出す宮元(富岡一丁目)の神輿などを見ながら目的の場所へと進みました。
伊能忠敬銅像
江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁は、測量開始から200年を迎え、50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ忠敬翁が注目を集めていますが、翁は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していたことから縁りの地であるこの八幡宮の境内大鳥居横に銅像が建立され、平成13年10月20日に除幕式が行なわれました。深川周辺には忠敬翁隠宅跡のほかにも、翁が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、忠敬翁終焉の地などが点在しています。
二の宮神輿の渡御り
・清澄通りから深川不動前へ
午前10時30分頃から永大通りの永代橋方向の片側車線を通行止めにして、二の宮神輿の渡御りの準備が整いました。永代通りの深川不動前と清澄通りの間の歩道には、神輿に水を掛けるためのトラックが2台駐車し、トラックの荷台には一杯のビニールシートを敷き水を満載し、町会の多数の若者が荷台上で満を持しておりました。
二の宮神輿
二の宮神輿の由来は、元禄時代に豪商紀伊国文左衛門が奉納した総金張りの神輿が関東大震災で焼失したため、68年後の平成3年に日本一の重さ4.5トンの一の宮神輿(風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)参照)が奉納されました。一の宮神輿があまりにも大きさのため、平成9年に屋根幅が1m36cm、高さ3m27cm、重量が約2トンで担ぎ棒の縦棒が5m60cm、横暴が4m70cmの二の宮神輿が奉納され、3年毎の本祭り(子・卯・午・酉の年)の翌年陰の御本社祭り(丑・辰・未・戌の年)に各町会の氏子達がお揃いの白い半纏を着て渡御りが行われます。
二の宮神輿の渡御り(二の宮神輿渡御り順路)は、7時に宮出し後枝川から豊洲の各町会での渡御りが済んでから、二の宮神輿を釣船橋までトラックで運び9時30分にスタートして、牡丹、黒船橋を過ぎて門前仲町の交差点を右折し永代通りの深川不動堂参道入り口付近で折り返しとなります。
渡御りの予定時刻に、先導のお囃子巳美会の山車の先導で二の宮神輿が進んできました。
富岡八幡祭りは、「水掛け祭」とも云われ永代通りでも、盛んに二の宮神輿に水が掛けられました。
水掛け祭
神輿が通る沿道のお店や住民から神輿と担ぎ手を清めるための「清めの水」が浴びせられることから、「水掛け祭」とも呼ばれ、元々は担ぎ手の足元位の高さに水を撒く様でしたが、1年で一番暑い8月の祭りですから、担ぎ手をクールにさせる意味も有ったんでしょう。それが何時しか勢い余って神輿まで水を掛ける様になったのが始まりだとも云われております。
折り返しからUターン後も水が掛けられる二の宮神輿
・深川不動前から清澄通りへ
深川不動堂参道入り口付近で折り返しからUターンすると、宮元のスタートなので先頭を地元の きれいどころの通州会による深川音頭の踊り連から始まり、お囃子巳美会の山車に富岡八幡の神官と巫女が続き、門前仲町の交差点へと進む二の宮神輿に水が掛けらました。
神輿は、永代橋を渡り亀島橋まで進みます。
・午後の二の宮神輿渡御り
午後の二の宮神輿渡御りの順路は、区役所まえからスタートして大門通りで折り返し、三石橋を渡り三つ目通りから清洲橋通りに出て清澄通りに左折します。清澄通りからは、交差点で葛西橋通りに左折して、さらに三つ目通りに左折して永代通りに出て汐見橋を渡り宮入りするという長大なコースの渡御りとなります。
午後は、次の予定により富岡一丁目のおそばやさんで軽い昼食をとり、富岡八幡祭りともお別れして、東西線門前仲町駅へと向かいました。
永代橋の落橋噺
六代目三遊亭円生の噺、「永代橋」によると、文化4年8月15日の祭礼が雨で延び延びになって、やっと晴れた19日に執り行われた。当日大変な人出であったが、午前10~11時ごろ一橋公が舟で隅田川を通ったため、橋止めをした。11時頃橋を通る事を認めたが両岸とも同時に開けた為、群衆が殺到し中央でぶつかり人の重みで崩れた。後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央に達すると河に転落して、最後の人間は濡れなかった。いずれかの武士がこの最中に危機を察し、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、日に輝く刀を見た群衆が危機を察し、後ずさりをしたため、その後人が落ちなかった。この事でどれだけの人が助かった事か知れない。大変な人助けであった。また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言う。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ
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江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。」とあります。
富岡八幡二の宮神輿の渡御り(神幸祭)は、永代通りの深川不動堂参道入り口付近で見物する予定で、途中伊能忠敬の銅像や15日の例大祭祭典に繰り出す宮元(富岡一丁目)の神輿などを見ながら目的の場所へと進みました。
伊能忠敬銅像
江戸時代後期の測量家・伊能忠敬翁は、測量開始から200年を迎え、50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ忠敬翁が注目を集めていますが、翁は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住み、測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していたことから縁りの地であるこの八幡宮の境内大鳥居横に銅像が建立され、平成13年10月20日に除幕式が行なわれました。深川周辺には忠敬翁隠宅跡のほかにも、翁が天文学を学んだ暦局跡、歩測訓練を行なった道、忠敬翁終焉の地などが点在しています。
二の宮神輿の渡御り
・清澄通りから深川不動前へ
午前10時30分頃から永大通りの永代橋方向の片側車線を通行止めにして、二の宮神輿の渡御りの準備が整いました。永代通りの深川不動前と清澄通りの間の歩道には、神輿に水を掛けるためのトラックが2台駐車し、トラックの荷台には一杯のビニールシートを敷き水を満載し、町会の多数の若者が荷台上で満を持しておりました。
二の宮神輿
二の宮神輿の由来は、元禄時代に豪商紀伊国文左衛門が奉納した総金張りの神輿が関東大震災で焼失したため、68年後の平成3年に日本一の重さ4.5トンの一の宮神輿(風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1)参照)が奉納されました。一の宮神輿があまりにも大きさのため、平成9年に屋根幅が1m36cm、高さ3m27cm、重量が約2トンで担ぎ棒の縦棒が5m60cm、横暴が4m70cmの二の宮神輿が奉納され、3年毎の本祭り(子・卯・午・酉の年)の翌年陰の御本社祭り(丑・辰・未・戌の年)に各町会の氏子達がお揃いの白い半纏を着て渡御りが行われます。
二の宮神輿の渡御り(二の宮神輿渡御り順路)は、7時に宮出し後枝川から豊洲の各町会での渡御りが済んでから、二の宮神輿を釣船橋までトラックで運び9時30分にスタートして、牡丹、黒船橋を過ぎて門前仲町の交差点を右折し永代通りの深川不動堂参道入り口付近で折り返しとなります。
渡御りの予定時刻に、先導のお囃子巳美会の山車の先導で二の宮神輿が進んできました。
富岡八幡祭りは、「水掛け祭」とも云われ永代通りでも、盛んに二の宮神輿に水が掛けられました。
水掛け祭
神輿が通る沿道のお店や住民から神輿と担ぎ手を清めるための「清めの水」が浴びせられることから、「水掛け祭」とも呼ばれ、元々は担ぎ手の足元位の高さに水を撒く様でしたが、1年で一番暑い8月の祭りですから、担ぎ手をクールにさせる意味も有ったんでしょう。それが何時しか勢い余って神輿まで水を掛ける様になったのが始まりだとも云われております。
折り返しからUターン後も水が掛けられる二の宮神輿
・深川不動前から清澄通りへ
深川不動堂参道入り口付近で折り返しからUターンすると、宮元のスタートなので先頭を地元の きれいどころの通州会による深川音頭の踊り連から始まり、お囃子巳美会の山車に富岡八幡の神官と巫女が続き、門前仲町の交差点へと進む二の宮神輿に水が掛けらました。
神輿は、永代橋を渡り亀島橋まで進みます。
・午後の二の宮神輿渡御り
午後の二の宮神輿渡御りの順路は、区役所まえからスタートして大門通りで折り返し、三石橋を渡り三つ目通りから清洲橋通りに出て清澄通りに左折します。清澄通りからは、交差点で葛西橋通りに左折して、さらに三つ目通りに左折して永代通りに出て汐見橋を渡り宮入りするという長大なコースの渡御りとなります。
午後は、次の予定により富岡一丁目のおそばやさんで軽い昼食をとり、富岡八幡祭りともお別れして、東西線門前仲町駅へと向かいました。
永代橋の落橋噺
六代目三遊亭円生の噺、「永代橋」によると、文化4年8月15日の祭礼が雨で延び延びになって、やっと晴れた19日に執り行われた。当日大変な人出であったが、午前10~11時ごろ一橋公が舟で隅田川を通ったため、橋止めをした。11時頃橋を通る事を認めたが両岸とも同時に開けた為、群衆が殺到し中央でぶつかり人の重みで崩れた。後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央に達すると河に転落して、最後の人間は濡れなかった。いずれかの武士がこの最中に危機を察し、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、日に輝く刀を見た群衆が危機を察し、後ずさりをしたため、その後人が落ちなかった。この事でどれだけの人が助かった事か知れない。大変な人助けであった。また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言う。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
<前回 風景・風物詩(B4) 江戸三大祭 富岡八幡例大祭(その1) へ
次回 風景・風物詩(B5) 夏の風物詩 日比谷公園丸の内音頭盆踊り大会 へ>