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大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り

2007年04月08日 | 大森町界隈あれこれ 海苔
kan-haru blog 2007

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のり祭り
毎年4月の第1日曜日に開催している恒例行事の「海苔のふるさと 本場大森品川問屋 のり祭り」は、今年は「大森ふるさとの浜辺公園」のオープンの日と同日の4月1に行われましたので、午前中に行ってきました。
のり祭りの目玉は、昨年(「大森町界隈あれこれ(5) 大森海苔物語(1) プロローグ」参照)と同様に「海苔すき」体験と「全国海苔産地あて」食べ比べです。のり祭りは、大森本場乾海苔問屋組合の主催で、大森町近くの大森海苔会館(大田区大森中1-6-5 地図参照)で行われます。


かって、大森は海苔一大産地
「のり祭り」で展示してあるパネルで、かって日本一であった大森海苔の栄光を見てみましょう。
・海苔養殖の始まり
「海苔」という言葉は、およそ1300年前の最初の法律書「大宝律令」と平安時代の辞典「倭名類緊鈔(わみょうるいじゅうしょう)」に登場し、海苔は朝廷への貢物としてあげられています。
海苔養殖は、品川にある徳川家に献上する魚の生簀の”そだ”に、海苔がついているのを偶然見つけたことから、品川・大森を中心とする東京湾で養殖がはじまったと考えられています。

・江戸幕府と大森海苔
品川・大森村で生産された最上級品の海苔を「御膳海苔」と呼ばれ、将軍家と菩提寺の寛永寺と徳川御三家に納められておりました。幕府へ納めた海苔の量はおよそ9000リットルで、その多くは大森村の商人が担っており、権威と名誉を誇っていました。
江戸幕府倒壊後は、大森では新政府軍に5000両を献上して「御膳海苔」の継続を願い出て、大森村は新たな漁場を獲得し、それをきっかけに、東京湾沿岸で海苔養殖が活発になりました。


・大森から伝わった海苔つくり
江戸時代の後期の頃、大森で海苔を仕入れて各地で行商した諏訪の商人が、海苔生産に適した入江を見つけ、大森から生産技術をとり入れたり、生産者を招いたりして、全国各地へ海苔つくりが伝わりました。


・大森海苔養殖の終焉
大森海苔の生産量は、江戸時代から明治にかけ海苔養殖は衰えることがなく、その地位は第二次世界大戦まで不動でした。しかし、戦後の高度成長により水質汚染や東京湾の埋め立て計画により、漁場環境は悪化の一途を辿り、1962年(昭和37年)に漁業権を放棄し海苔の養殖が終わりました。

海苔すき
四角形の干し海苔を製造する作業を「海苔すき」と云います。毎年のり祭りのイベントとして「海苔すき」の体験が行われます。
「海苔すき」は、作業場に置かれた流し台の上に水切の「簀の子」を敷き、その上に海苔簀を重ねます。そこに干し海苔の大きさの付け枠を載せ、流し台の脇に水と混ぜた刻んだ生海苔を入れた付け樽から付け升ですくい、簀の上においた付け枠に投げる要領で一気に注ぎます。
注いだ海苔の水が引ききらぬ内に枠を揺らし簀に平均に広げて、水が簀を通して流れ落ちて海苔が簀に落ち着いてから、枠を外して簀を水切りの横桟へ立てかけて一枚の海苔すきが終了です。

                   海苔すき                     海苔天日乾し

海苔すきは、早朝に行い台乾しで天日乾燥をして取り込み、はがし板で乾し海苔を押さえて簀からはがして海苔の完成です。

海苔のたべくらべ
「のり祭り」のイベントには、有明、静岡、千葉産の乾し海苔を食べ比べて、産地を当てる催しも行われ、春休みで遊びにきていた孫がぴたりと当てて賞品を貰って喜んでいました。
会場には、海苔の問屋さんが並んで各種の海苔を販売しておりました。
「のり祭り」の会場を一巡して、アンケートに答えて携帯ストラップを貰って帰りました。

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