K&A

kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)

2006年03月23日 | 大森町界隈あれこれ 65年
戦時中の大森町
大森と云うと、東海道線・京浜東北線のJR大森駅が中心とした地域を想定すると思いますが、大森駅は区の北端で品川区境にあり、大森町は再掲の大田区全図の地図(PDF版地図)で見て分かる通り、西の境は東海道線から東側にあり、北境は一部を除き環七通りから南側で、南の境は糀谷・蒲田から北側に位置し、大田区南北の中央部にあります。

戦後(1947年)合併以前の大森町は、馬込・東調布・池上・入新井・大森の5つの町からなる大森区にありました。
大森区時代の戦時中の大森町は、1940年発行・大東京区分図大森区詳細図復刻版よりの大森東部地域分割の入新井・大森地区地図(PDF版地図)で見ると東側は東京湾の海岸線に接しております。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。

地図で入新井の海岸線には、何と大森大海水浴場(写された大田区~懐かしい・まちとくらし~ 大田区立郷土博物館1992年 出典)が見られ、京浜電車(現在の京浜急行電鉄)の海水浴場の傍の駅名は「大森海岸」(現在実存)と云い、現在では東京湾までは遥か2Km以上先まで埋め立てられ、想像も付きません。
現在の大森町の中心にある京浜急行電鉄の駅名は、その名もズバリ「大森町」ですが、当時は「山谷」と称してました。

その他、京浜電車の駅名にはいろいろと変遷があり、「山谷」駅の北隣の駅名は「学校裏」(「平和島」に1961年改正)と呼び、現在の駅が環七の北側に対し南側にありました。学校裏の由来については、別編で記載しますが、駅の傍に大森で最も古い寄木尋常小学校が開校した場所で、その裏側に駅が出来たからです。その後、寄木尋常小学校は、国道131線沿いの大森第一小学校と、内川と云う河川沿いの大森第二小学校に分校しました。
ちなみに、大森第一小学校は私の母校であり、大森第二小学校は子供達の母校です。
また、「学校裏」と「大森海岸」の間に、「八幡」と云う駅が通称八幡通りにありましたが、現在は存在しておりません。

なお、当時の大森警察署は、現在地の国道51号線と国道131線の三叉路の又部では無く、三叉路から分岐の旧東海道の美原通りを北行した、通の右側にありました。
現在の大森警察署所在の場所には、大森区役所があり、付近に電気館、日活館や大森劇場などがあり、戦前の大森町の立地条件は区部の中心街として形勢していたのです。

<前回 大森町に住んで65年!(その2)へ    次回 大森町に住んで65年!(その4)へ>
コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大森町界隈あれこれ(2) 大森... | トップ | 小さな旅(2) 菩提寺墓参 »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
苦労様 (れっどR)
2006-03-24 08:59:50
隔日の更新ご苦労様です。

画像リンク楽しみにしております。
返信する
Unknown (Toyokichi)
2006-03-24 10:11:47
写真付きですと更に面白くなりますね
返信する
探していました (よっしー)
2009-12-14 15:16:50
東京都えばらく
大森西240番地

という住所に住んでいた・・・
という手がかりをたよりに
本人に替わり探していた情報を
見つけられました。
子供さんたちが通っていらしたという
大森西小学校卒です。
これからも見せて貰います。


返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大森町界隈あれこれ 65年」カテゴリの最新記事