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監視社会肯定論、その方が不幸が少なくなるという

2014-05-30 13:22:18 | 読書ノート
大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?:二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』筑摩選書, 筑摩書房, 2014.

  監視社会論。と記すと、オーウェル的世界の恐怖を煽るような月並みな議論がすぐ想起されるが、本書はそれとは真逆の、犯罪の予防や個人の失敗を未然に防ぐためのパターナリスティックな介入を肯定する議論を展開している。いわゆる「アーキテクチャ論」(参考)に位置付けることができるだろう。

  著者は、個人主義という現代の責任システムは、19世紀的な社会環境と監視技術の制約のもとに生れた妥協の産物にすぎないとする。それは、失敗や被害を事後的にしか救済できない上に、失敗者や被害者の主体性を求める制度となっている──例えば裁判の原告になるなど。このため、彼らのコストが大きくなってしまう。結局、国家は個人に介入しないというこの建前は、現代ではそうしたコストを負担できる企業を強くし、それらが監視やアーキテクチャなどの手段によって個人をコントロールできる状況を生み出しているという。

  そこで「ミラーハウス社会」という、政府にプライベートな領域への監視を認め、また監視される側が政府を監視するという仕組みが提案される。当然、企業も監視される。この提案は、安藤馨の『統治と功利』(参考)で構想された社会より適切なものとして検討されるのだが、実のところ焦点となるところが僕にはよくわからなかった。乱暴にまとめれば「あんたら民間の中間団体による監視を受け入れている(例えば防犯パトロールする自治会やら、消費行動を把握するツタヤやらがある)くせに、なんで政府による監視が嫌なわけ?政府による監視のほうが容易でマシな社会になるかもよ」ということである。

  リベラリズムに対する著者の認識、リベラルな個人主義の社会を成功させるためには、社会は主体を造り上げるべく教育などパターナリスティックな介入を行わなければならない、という点については深く同意する。そしてそうした介入が今現在においても認められるものであるならば、他の方法、すなわちより効率的で強制性の少ない方法もあるのではないか、と著者は考えるわけである。
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