橘玲『(日本人)』幻冬舎, 2012.
日本人論。日本的だと思われている特性は実はそれほど特殊ではなく、日本人は経済合理的な制度設計を案外支持しそうだとほのめかす。様々な知見が現れては消えてゆく構成であり、まとまりは欠けているが、個々のエピソードはそれなりに面白いし、全体としての主張は『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(参考)より理解しやすいものになっている。
強引にまとめると、経済合理性の点でグローバリズムはローカルルールに優越する、ということである。両者の相克において、最終的にはグローバリズムが勝利することは確実である。なので、日本的ローカルルールに頼らない人生設計をすべきだと読者にすすめることになる。こう単純化すると、まるで一昔前の戦後民主主義のよう──普遍主義の立場から日本のムラ社会性を叩くというよう──で、多くのことが抜け落ちてしまうことも確かである。だが、端的にはそういうことだ。ただし、著者のいう「グローバリズム」は、経済合理性があるならばリベラリズムも保守主義も取り込んでしまうような融通無碍のものであり、意図してかリバタリアニズムと混同されるような書き方になっている。
主張を支える根拠の一つとして、日本的特殊性に実は独自性はないということを挙げている。日本的特殊性は、ある段階の経済発展状態の国ならば普遍的に見られる現象にすぎないというのである。この指摘の意味は文中で十分展開されていないけれども、他国がそうした地域性を乗り越えてグローバリズムに接続しうるならば、日本もまた同様であり、「グローバリズムが許す限り」のローカルルールでしかやっていけないとする考えを導くと解釈できる。
根拠の二つ目は、日本人は西欧と比べても権威に対する信頼が特段に低く、世俗的で現世利益志向であるという。多くの日本人は国家や共同体が嫌いなのだ。多くの日本人の人生態度は「食っていける方」につくだけである。なので、保守主義も福祉国家志向も日本人の支持を受けないと著者は予想する。勝利するのは「グローバリズム」、正確に言うと経済合理主義だというのである。したがって、そうした流れに合った生き方をせよ、といういつもの橘玲節となる。
すなわち、日本人は結局皆リバタリアンなんだからそうやって生きろよ、というわけだ。ただ、個人における経済合理主義が必ず自由主義的な社会の発展を促すというのは踏み込みすぎのような気もする。経済発展が行き詰まって社会がゼロサムゲームのようになるならば、「出る杭を打つ」のが個人的には合理的である社会となる可能性も残されている。その点、与えられた経済状況ではなく、日本人の現在のメンタリティに根拠をおいて議論を展開することの危うさも感じる。でも、これは深読みのしすぎかもしれないが。
日本人論。日本的だと思われている特性は実はそれほど特殊ではなく、日本人は経済合理的な制度設計を案外支持しそうだとほのめかす。様々な知見が現れては消えてゆく構成であり、まとまりは欠けているが、個々のエピソードはそれなりに面白いし、全体としての主張は『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(参考)より理解しやすいものになっている。
強引にまとめると、経済合理性の点でグローバリズムはローカルルールに優越する、ということである。両者の相克において、最終的にはグローバリズムが勝利することは確実である。なので、日本的ローカルルールに頼らない人生設計をすべきだと読者にすすめることになる。こう単純化すると、まるで一昔前の戦後民主主義のよう──普遍主義の立場から日本のムラ社会性を叩くというよう──で、多くのことが抜け落ちてしまうことも確かである。だが、端的にはそういうことだ。ただし、著者のいう「グローバリズム」は、経済合理性があるならばリベラリズムも保守主義も取り込んでしまうような融通無碍のものであり、意図してかリバタリアニズムと混同されるような書き方になっている。
主張を支える根拠の一つとして、日本的特殊性に実は独自性はないということを挙げている。日本的特殊性は、ある段階の経済発展状態の国ならば普遍的に見られる現象にすぎないというのである。この指摘の意味は文中で十分展開されていないけれども、他国がそうした地域性を乗り越えてグローバリズムに接続しうるならば、日本もまた同様であり、「グローバリズムが許す限り」のローカルルールでしかやっていけないとする考えを導くと解釈できる。
根拠の二つ目は、日本人は西欧と比べても権威に対する信頼が特段に低く、世俗的で現世利益志向であるという。多くの日本人は国家や共同体が嫌いなのだ。多くの日本人の人生態度は「食っていける方」につくだけである。なので、保守主義も福祉国家志向も日本人の支持を受けないと著者は予想する。勝利するのは「グローバリズム」、正確に言うと経済合理主義だというのである。したがって、そうした流れに合った生き方をせよ、といういつもの橘玲節となる。
すなわち、日本人は結局皆リバタリアンなんだからそうやって生きろよ、というわけだ。ただ、個人における経済合理主義が必ず自由主義的な社会の発展を促すというのは踏み込みすぎのような気もする。経済発展が行き詰まって社会がゼロサムゲームのようになるならば、「出る杭を打つ」のが個人的には合理的である社会となる可能性も残されている。その点、与えられた経済状況ではなく、日本人の現在のメンタリティに根拠をおいて議論を展開することの危うさも感じる。でも、これは深読みのしすぎかもしれないが。