こんばんは、白黒茶々です。
私・波・狛の白黒茶々家の1人と2頭は、新城市内に点在する廃校をたどっていって、同市の北部まで来ていました。 旧新城市立連谷小学校での資料集めを終えてから、ついでに同じ四谷地区にある棚田にも寄ってみることにしました。
学校跡からちょっと戻ったところから1本道なので、迷うことナシ そこから車に乗って3分ほどで………
見学者用に設けられた駐車場にたどり着きました。 ちょっとジラしてしまいましたけど、それから間もなくして私たちの目の前には………
このような景色が広がっていました こちらは四谷の千枚田といって、標高883mの鞍掛山を水源にして、その麓を石垣で囲って、無数の棚田を形成しています。
その山の中腹から湧き出る水は、大雨が降っても濁ることがないそうです。高低差200mの間に、現在22戸の農家の方たちが420枚の田を耕していて、「日本の棚田百選」にも選定されています。
よく見てみたら、下のほうから収穫が始まっていて、昔ながらの稲架(はさ)掛けがおこなわれていました。 そうしたらせっかくなので、この広大な風景をバックにして、波と狛の写真を撮っておきましょう
ところが、このような時に限って彼女たちはなかなかこちらを向いてくれませんでした。 さらに雨が降ってきたので、急いでください。
そんな波狛ちゃの注意を引くために、山あいの棚田に私の奇声がこだましました。 その頃、私たちのまわりには人が集まってきていたのですけど、振り返る余裕はありません。いや、恥ずかしくてできなかったと言ったほうが………
とにかく、なんとか納得いく1枚が撮れたので、早々に退散しました。
四谷の千枚田を出てからすぐに雨がやんだので、私は廃校めぐりを続行することにしました。 稲目トンネルを潜っていったん設楽町に入ってから、国道257号線を南に下っていき、愛郷羽石というところから脇道を上っていったところに………
旧鳳来町立愛郷小学校はありました。
こちらの学校は明治9年(1876年)に島田学校として創立し、昭和53年(1978年)に閉校しました。 旧校舎と思われる建物は、その後明泉愛郷スクールとして活用されたのですけど、これも平成20年(2008年)頃に閉鎖されたそうです。
現在はその一部に、ブラジル人家族が住んでいるといいます。
その校庭には、遊具が残されていて………
二宮金次郎の像ではなく、成人した金次郎こと二宮尊徳が石製のレリーフとなっていました。
さらに旗立て台もあったのですけど、なぜかそこには虫取り網が立てられていました。
そこから再び国道257号線に入り、豊川に沿って南下していった新城市の布里地区に………
旧新城市立鳳来西小学校はありました。 こちらの学校は、先ほどの愛郷小学校とこの地にあった布里小学校が統合して、昭和53年(1978年)に創立。
その校庭の片隅に残されている二宮金次郎の像は昭和29年(1954年)に設置されたというので、布里小学校の頃からのものと思われます。
体育館や………
校舎の正面玄関などはきれいなままですね。 しかし、こちらの学校は平成28年(2016年)の春に閉校し、海老小学校、連谷小学校とともに、鳳来寺小学校に統合されてしまいました。なので、鳳来西小学校となってから、わずか38年ということになります。
石に刻まれた校歌の歌詞をたどっていったら、まわりの情景や学校への愛着が浮かび上がってきて、より寂しい気分になってしまいました。 そうしたらせっかくなので、この鳳来西小学校の校歌を歌ってみましょう。パソコンやスマホの前の皆さんもご一緒に
さん、はいっ
………………
そういえば、この校歌の曲がわかりませんでした。
閉校からの4年は短いようでも、校庭に生い茂った草がその長い空白を示していました。 数十年も前に閉校し、木造校舎が朽ちかけた状態ならまだ諦めがつくのですけど、まだ使えそうな立派な校舎が放置されている廃校は、言いようのない寂しさを感じます。
この後、もう2ヶ所ほど廻るつもりだったのですけど、日が暮れ始めたあたりで土砂降りに遭ったので、そのまま撤収することにしました。 とはいっても、この日だけでも12ヶ所の廃校を訪れ、さらにもう3ヶ所の名所も巡ってきたので、我ながら上出来と言ってもいいでしょう。
実は、今回取りこぼしたその2ヶ所の中には、私が新城市の廃校めぐりをするきっかけとなった(廃校シリーズの冒頭の衛星写真の「こはいかに?」の)ところも含まれているのですけど、それらはまたの機会に触れさせていただきます。 最後に、長々と続いた廃校レポートを読んでくださった皆さん、私の探求に付き合わされつつもモデルを務めてくれた波と狛に、お礼申し上げます。
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