波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

牛川の叫び

2024-02-28 02:19:09 | 家族

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私はと一緒に豊橋市の北東部に位置する牛川町を訪れています。 実はこの地域では、昭和30年代に世紀の大発見があったのですよ

………ということで、私たちは豊橋東陵地区市民館にやって来ました こちらは牛川町にある公民館なのですけど、その入口には………

「牛川人骨」なるもののレプリカが展示されているのですよ 実は私たちはこの牛川人を探究するために、この地域を訪れました。 正確には、牛川人に興味を持ったのは私だけで、波と狛はそれに付き合わされただけなのですけど。 とにかく、ここからさらに歩いて調査に行きます 東陵地区市民館から南の方向へ、住宅地を8分ほど歩いていったところにある………

小さな公園に行き着きました。 その入口には………

「牛川原人史跡公園」という石碑が立てられていますね。 住宅地の公園ということもあって、ブランコやシーソーといった遊具も設置されているのですけど………

その中央には「牛川原人之碑」と刻まれた石碑が置かれています。 昭和32年(1957年)にこの付近の石灰岩の採掘場で、化石化した骨が発見されました。 東京大学の教授で人類学の第一人者でもあった鈴木尚氏は、発掘されたのは更新世紀後期の10万年前の地層で、国内最古の化石人のものと認定しました。 「牛川原人発見 」のニュースに人々は驚き、地元は大いに沸いたと思われます。
ちなみにこの石碑の文字は、鈴木尚博士の筆によるものです。 その後、牛川人は年代が下がって旧人のものとされたりもしたのですけど………

さらに技術が進み、年代の測定や分析がより正確で明確にできるようになった近年では、牛川人とされてきた骨は原人や旧人はおろか、ヒトのものであるかどうかも、怪しくなっていきました。 そして最近載った新聞の記事には、ヒグマのものであることがほぼ判明したと、ありました。 牛川人ではなく、牛川羆(ひぐま)だったなんて……… ヒグマは現在は本州には生息していなくて、それは年代的にも本州最後のヒグマということになるので、貴重といえなくもないのですけど。
牛川原人は幻だったものの、発見されてからの経緯や、それに対する人々の想いに、私はロマンを感じました。 学術的に否定されても、牛川原人は私の心の中にいます。 なので、この地を実際に訪れて、より牛川原人のことを身近に感じることができたので、よかったと思っています。 しかし、この小さな公園だけではナンなので、そこからさらに南の方向、歩いて15分程の住宅街の山側にある………

Google Mapに「牛川原人『美人の湯』跡」と記されている地点にやって来ました 調べたら、このあたりはかつては温泉付きの住宅地として売り出され、仮設で無料の露天風呂も設けられていたそうです。

さらに「原人神社」なる怪しい社殿もあったのですけど、そのまわりにひっつき虫を含む草が生い茂っていて、近づくことはできませんでした。 それから不思議なことに、牛川原人史跡公園の途中あたりから私のスマホに撮ったハズの画像が保存されてなかったので、「美人の湯」跡のあたりはストリートビューなどから引用させていただきました。

原人を追い求めて勢いが付いた私は、さらなる目的地に向かって牛川の住宅地を歩いていました。 するとそこに、電話がかかってきました。からなのですけど、何の用なのでしょうか?
「すぐ来て、お父さん死んじゃった」
その直後、自分でも驚くほどの大きくて悲壮的な声が牛川の街に響き渡りました。とにかく、自分の気持ちをなだめながら、急いでそちらに向かうことにしました。

81歳になる私のは、いくつかの持病を抱えながらも元気で、よく食べよく寝て、自らが創業したお店の2階で隠居的な生活を送っていました。ほんの2日前の病院での定期検診では異常はなく、普通に歩いたりしていたのですけど………

病院の救急外来の廊下には、一家、それに私から知らせを受けた箔母さんたつぴが集まっていました。母と姉によると、父は前日の夜まではしっかりとご飯を食べていたのですけど、その日の朝は体の具合が悪くなり、母に支えられてトイレに入ったそうです。病院に行くのを勧められても断わり、ベッドで横になることに。しばらくして母が様子を見にいったら息をしていなくて、ちょうど居合わせた姉が心臓マッサージをしている間に、私や救急車を呼んだそうです。
今思うと、牛川で写真が撮れなかったのは、父が亡くなった頃だったので、お別れを告げに来てくれたのかも知れません。

その後も救急隊員が心臓マッサージを続けても蘇生することはなく、10時47分に死亡が告げられました。それから間もなくして、死後の処置がされた父が霊安室に運ばれていきました。まだ温かくて、死んでいることが信じられなかったのですけど、遺体を自宅まで運ぶ業者を探したり、菩提寺への連絡や葬儀場の確保を急いでしなければなりませんでした。目の前で起こっている事実を受け入れながらも、気持ちはついていけませんでした。

父の遺体は一旦はお店の2階の居間まで私も含めた男手で運んだのですけど、階段や通路が狭くて、死後硬直したら降ろすことができなくなるので、1階のお店の片隅に棺を置いて、その中に安置することになりました。2月は亡くなる人が多いみたいで、斎場は予約でいっぱいでした。そういうこともあって、市の公営の斎場で5日後の9日に通夜、10日に葬儀がおこなわれることになりました。さらに、喪主は長男の私が担うことに。その1週間はお店は半分開けている状態で、その間に生前父と親しくしていただいた方たちが逢いに来てくださったりしました。いずれにしても葬儀が終わるまでは仕事にならず、晩年まで仕事に熱心だった父にとってそこはいい居場所だったと思います。それに一時的とはいえ、自宅にも上げられたので、父も私たちも満足&納得できましたし。そして9日の夕方に近所の方たちに見送られながら、父はお店から出棺しました。
ところで皆さんのところには、出棺の際に藁を燃やしたり茶碗を割ったりする風習はあるでしょうか?

湖西市の斎場まで来ました。父は生前に、自分の葬式は大きなところで派手にやって欲しいと言っていました。それは数ヶ月前に、父が参列した実兄の葬儀が身内だけの小さな家族葬だったことに反してでも、見栄からでもないような気がします。父は仕事関係も含めて、どんな人にでも気さくに話しかけたりして、多くの方から慕われていました。そんな大切な人たちにお別れの場を設けたいと考えていたと思います。通夜にはたくさんの人が参列して、涙を流したりしんみりとした笑顔で父との思い出を語ったりしてくださいました。

喪主の挨拶の文にも入れたのですけど、父は40年以上も前に親会社から独立して、身寄りもない新たな地で小さな小売店の会社を創立。以来、熱心に働いてきました。70歳頃に心筋梗塞になり、さらにその数年後にはステージ4の喉頭癌を患いました。それらは手術で克服したのですけど、ヘビースモーカーだったことから肺機能が低下し、79歳の時には老人性貧血で医師から余命宣告を受けるまでに。本人の希望もあって、治療を諦めて自宅に戻ることにしました。ところが、お店の様子を見ながら、母の美味しい料理を食べたり、ボートレーサーの孫たちの活躍に熱くなったりしていたら、奇跡的に快復 医師も驚くほど元気になりました。以後の2年余りは、神様から与えられた時間だったと思います。
認知症にもならず、介護の手もかからず、ほぼ苦しむこともなくポックリと逝ったので、なかには「理想的な最期」と仰る方もいました。

翌日の10日は、葬儀がおこなわれました。私は、ペットも含めて亡くなった者の葬式の日の天気は、その方の人柄を表していると信じています。その日は、雲ひとつない快晴でした。市の斎場は火葬場と一体となっていて、父の棺はたつぴらに抱えられて火葬棟に運ばれました。そして爽やかな青空の中、父は旅立っていきました。

ボートレーサーの光君は、「レースで頑張っている姿を見せれば、じいじは喜ぶし供養になるから」と言って、通夜や葬儀がある頃に予定されていたレースに出場しました。 その最初のレースでは、1着でゴールしたのです その姿を見た母は涙を流し、私も感動でいっぱいになりました。 こんなに泣けるレースは初めてでした。

翌週の休み明けから、私たちは父が興したお店で再出発しました。 小さい会社ですけど、社長は私が受け継ぎ、まわりの手を借りたりしながら名義変更などの後処理の業務などを少しずつ進めています。 お父さん、今までありがとう。 これからは母を守りつつも、残された者たちで遺志を受け継いでいくので、遠くから見守っていてください。



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