波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

カープのお好み焼きとお城(広島・岩国方面二人旅その3)

2016-08-27 00:51:27 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
今回の二人旅は、欲張り感満載の強行スケジュールということもあって、あっという間に半分以上が過ぎてしまいました。 とはいっても、このあとにもお楽しみが控えているので、皆様もどうか最後までこの旅日記にお付き合いくださいませ。



私とたつぴが広島の平和記念資料館から出てきたら、外は日が暮れてきていました。これからその晩に泊まる宿に向かうのですけど、その前に晩御飯を食べておきたいですね。 そうしたら、やはり広島ということでお好み焼きはハズせませんね。しかし、市内にはそのお店がたくさんあり過ぎて、どこがいいのか迷ってしまいます。 そうしたら………



お好み焼き屋が集約されている、こちらのお好み村に行けば、万事解決です そのフロアに入ってみたら、たくさんのお店が軒を連ねていると思いきや、各店舗の間には間仕切りのようなものはほとんどなく、カウンター式のお店で客が鉄板を囲んでいました。あらゆるところから、お好み焼きを焼く香ばしい匂いが誘ってきましたよ。 新ちゃん、山ちゃん、八昌、かずちゃん、厳島、かえるっ亭、……… う~む………  私はまたしてもどこに入るのか迷ってしまいました。そういうときは、越前大野の銭湯を選んだときのように、一番インパクトのある名前のお店にすればいい ということで、今回はカープというところにしました。

広島東洋カープのファンで盛り上がるというそのお店は、壁にたくさんの著名人のサインが飾ってありました。 それらの中には、やはりカープの選手のものもありましたよ。店主の方はカープファンみたいで、お店のテレビに今季はセ・リーグの首位を突っ走っているカープが映し出されたら、ご機嫌上々なご様子でした。



そのような中で、私とたつぴは肉玉そば(810円)を注文しました。鉄板の上で、まずは小麦粉の生地を薄く広げ、その上に刻みキャベツ、もやし、天かす、豚肉を盛り、そのそばで焼いていた生麺の上に乗せて、上から圧縮。さらにそれらを黄身をつぶした目玉焼きの上に乗せ、ソースを塗って仕上げたのが、こちらになります。 カリッと焼かれていて油っこくないこともあって、かなりボリューミーなようでも、ツルッと完食することができました。もちろん、満足できる味でございましたよ。



心もお腹も満たされたら、宿のほうに向かいますよ!その晩に私たちがお世話になる宿は、こちらのホテル28広島にございます。 フロントで受付を済ませたら………



部屋にご案内いたします。 今回は2人ともゆったりと寝られるように、ツインルームを確保しました。というよりは、昨年泊まったところは、ダブルルームしかなかったのですけど。 トイレと洗面所は共用ながらも、24時間入浴可の大浴場が備わっていて、さらにこれらに朝食も付いて、2人で5700円(ポイントを使ったので、実際には5400円)なのですよ このあまりにも良すぎる内容に疑いを持った箔母さんが調査を入れたら、一部ワケあり部屋が含まれているということが判明。ただし、私たちが割り振られた部屋は、問題ナシでした。入浴後は2人とも旅の疲れもあって、すぐに熟睡。 あっという間に次の朝となりました。



そうしたら、1階のレストランで朝食をいただくことにしましょう。 こちらでは、和朝食と洋朝食のどちらかを選べるのですけど、私たちはともに後者にしました。二人旅の最終日となるその日は、1ヵ所だけ見学してお土産を買って帰る予定となっていました。朝の準備を済ませ、チェックアウトをしたら、徒歩+路面電車+徒歩で目的地に向かいますよ そのようにして、私たちが行き着いたところは………



広島城にございます。平和都市として知られる広島市には、山陽地方では最大規模のお城があったのですよ
中国地方をほぼ手中に納めていた戦国大名の毛利元就は、吉田郡山城を本拠としていました。その孫で、豊臣家の五大老にもなった毛利輝元は、太田川河口の三角州となるこの地に、天正17年(1589年)から築城を開始し、その2年後に移り住みました。



こちらは、平成6年(1994年)に二の丸跡に復元された、二層の太鼓櫓、それに続く長いのは多聞櫓、突き当たりの単層のものは平櫓にございます。ここまで来たら、もちろん皆様をその内部にご案内致しますよ ただし、入口は向こう側の突き当たったところにあるので、頑張ってそちらまで歩いていってくださいませ。 そうしたら………



平櫓の横には、二の丸の正面入口となる橋御門が見えてきましたよ



ちなみに、こちらはその橋御門の内部にございます。 さらに………



平櫓と………



なが~い多聞櫓の廊下を経て………



太鼓櫓の1階に行き着きました。2階は非公開なので、打ち鳴らして時刻を知らせる太鼓は、こちらの階に置いてありました。 これらの建物は、公開時間内なら無料で見学することができます。



二の丸からは、中御門跡を通って本丸に入るのですけど………



その間にある水堀をのぞいてみたら、立派な鯉と亀が仲良く(?)泳いでいました。 亀のなかにはいちおう在来種のクサガメもいたのですけど、外来種のミシシッピアカミミガメ(通称ミドリガメ)が大半を占めていました。広島城は別名を「鯉城」と書いて「りじょう」というのですよ。ちなみに、今絶好調の広島東洋カープの球団名は、この鯉(carp)に由来しています。私たちは、昨年は丸亀城の亀を見て、今年は鯉城の鯉と出会すことができるなんて……… なんか、得した気分です。



本丸の下段となる馬場の跡には、現在は広島護国神社が鎮座していて、上段の本丸御殿跡には戦時中まであった広島大本営の土台だけが残っています。



本丸の東北隅の石垣は中途半端に崩れていますね。実はこれにはワケがあるのですよ。話せば長くなるのですけど、せっかくなので触れさせていただきます。
毛利輝元は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成率いる西軍に味方しました。 しかしその西軍は敗れ、その戦後処理によって長州(山口県)の萩に国替えとなってしまいました。 輝元に代わって、広島城には福島正則が入り、彼は城と城下町の整備を受け継ぎ、全体を完成させました。

しかしこの地方を襲った洪水によって、お城の一部が損壊してしまいました。正則は幕府に、修理の許可を申請したのですけど………
その頃には「武家諸法度」の中で「一国一城令」が定められていて、お城を修復する際にはそのことを幕府に届け出て、許可を受けなければならないということになっていました。
その一方で、幕府側は、正則が豊臣恩顧の大名ということもあって、いつかは潰してやろうと目論んでいました。

そのような中でおこなわれた、今回の修理の申し出。しかし、正則が待てど暮らせど、なかなか幕府からの返事がありませんでした。 しかも再三提出しても、なしのつぶてでした。それからかなりの月日が経ったものと思われます。
「安全面にも支障をきたしているから、もう待てん 」
しびれを切らせた正則は、お城の修復を始めてしまいました。ところが、この動きを幕府は敏感に察知したのでした。正則はハメられたのです。「や、ヤバい……… 」彼は、直しかけたところを慌てて壊したのですけど、それももうあとの祭り。無許可の修復=謀反の準備と解釈され、出羽(山形県)に追放されてしまいました。元和5年(1619年)のことでした。
代わって広島城には、浅野長晟が入城。 明治まで浅野氏が城主を勤めました。こちらの損壊石垣は、正則が壊したものと云われています。



そして私たちは、お城のメインともいうべき復興天守にようやくたどり着きました。 その前で記念撮影したら、いざ内部へ………



………入ると思いきや、その勇姿をできるだけ皆様にお伝えたいので、お堀の反対側まで廻らせていただきます。 それから、あらゆる角度から撮影しながら、建物の説明もさせていただきます。
広島城の天守は、毛利輝元によって慶長4年(1599年)までに建てられたとされています。



五層五階の天守は建物自体の高さが26,6mあり、土台となる天守台も含めると、39mにもなります。 さらに、昭和6年には国宝に指定されました。



ところが、昭和20年(1945年)8月6日に投下された原爆の爆風によって崩壊。火は出なかったのですけど、その残骸は、家を失った市民がバラックを建てるのに転用したり、県が製塩業者に燃料として払い下げたりしました。その代わりとして得た塩を市民に配ったので、広島城の旧天守は市民の命をつなぐ糧として、最後の役割を果たしたのです。



戦後になって市民のなかで天守再建の機運が高まり、昭和33年(1958年)に完成したのが、今日見られる復興天守であります。鉄筋コンクリート製なのですけど、外壁の下見板張りには木材が使われている(高島城や浜松城は、コンクリートを木板の形に固め、色を塗った)こともあって、風格と暖かみがあります。
またしても遠回りしてしまいましたけど、いよいよ復興天守の中に入りますよ その館内には、主に広島城に関する歴史資料が展示されているのですけど………



その中に、昔の衣装の試着コーナーもあったので、遠慮なく試させていただきました。 まずは、たつぴに裃を着せてみたのですけど、似合っているでしょうか?帰宅後に、この写真を箔母さんに見せたら、まずは「何をやってるんだか」と苦笑いされ、「胸元が開き過ぎてるし、袴の前後が逆だし」ダメ出しをされてしまいました。



そうしたら、私は甲冑を着ますよ こちらは勘違いや抜かりはないのですけど、我ながら顔が締まっていません。
「たわけ これが勇ましい武将の顔かっ」
それはさておき、各階の展示物を見ながら、最上階に上がっていったら………



まわりは高層のビルやマンションなどに囲まれているのですけど、南側には旧広島市民球場跡の向こうに原爆ドームが見えました。
このようにして、今回の二人旅はつつがなく終わると思われたのですけど、ここで私は大問題を抱えていたのですよ。 出発前に旅費を甘く見積もっていて、「これぐらい持っていけば足りるだろう」と思っていた予算が、足りなかったのです。帰りの列車には青春18きっぷを使うので、いちおう帰ってくることはできるのですけど……… 財布の中身はあと2000円程しかありません。 とはいっても、家と職場には「お盆休みは、広島・岩国方面に旅行に行ってくる」と宣言し、「広島だったら、お土産は紅葉まんじゅうだね♪」なんて、すっかりその気にさせてしまいましたし。だからといって「旅費が足りなくて、お土産は買ってこれなかった」なんてことは言えませんし……… こうなったら、昼と晩のご飯をガマンして、お土産を買うしかないのか……… もしそのようなことをしたら、私にとってもたつぴにとっても、今回廻った名所旧跡での思い出よりも、空腹を堪えながら帰りの列車に長時間乗った苦い体験のほうが勝ってしまう。 やはり、それだけはできません。こうなったら、ハジを忍んでたつぴに助けを求めるしかありません。
「たつぴ、持ってきたお小遣いに余裕ってある?」私は、彼の懐具合に最後の望みを託しました。 そうしたら、「今持っているのは、これだけだよ」彼の所持金は、4000円程でした。あまり余裕はないですね。それに加えて、彼はこれから部活仲間にお土産を買っていくことになっているので、多くは望めません。



それでも、1500円程借りることができたので、私はお土産を買って、食費にもある程度回せるようになりました。 昼は駅コンビニでおにぎりやコーヒーぐらいに抑え、晩は途中の姫路駅で吉牛(吉野家の牛丼)とごぼうサラダを調達しました。そうしたらまだ少しばかり余裕があっので、御座候(大判焼)も付けちゃえ そのあと、二人でペットボトルのコーラを飲んだら、残高は15円だけとなりました。
帰りの移動時間は、10時間近くも要したのですけど、なんとか危機を脱することができたので、心中穏やかでいました。



瀕死の状態ながらも、目的を果たして無事に帰ってくることができたので、今回の二人旅はいちおう成功ということにしておきましょう。 そういう私の手には、苦労して(?)買ってきた紅葉まんじゅうが。 「お土産を食べ終わるまでは、旅行は続いている」という私の迷言もあるので、あと数日は旅の余韻を味わっておこうと思います。


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コメント (2)
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