10数年間に座禅を始めて間もないころ、日曜日の朝5時からのNHK教育テレビで、たまたま「心の時代」という番組を見ていました。 曹洞宗の永平寺のお坊さんは、随分と偉そうに「外国人が座禅をしたいといってきましたが、先ず日本語を学んできてからにしなさい、と言って追い返しました」と話されていました。 すると、今度は「私は光を見ました。また大悟しました」と話すのを聴いて、空いた口がふさがりませんでした。
次の週の日曜日の朝、今度は黄檗宗の万福寺のお坊さんが、たんたんと話をされ、永平寺のお坊さんのように、偉そうな話をすることもありませんでしたがその内容は、なるほどなあと思わせるものを感じさせたのでした。
私は、見性とか大悟という感覚は、自分自身がそんなものかなというぐらいの感覚でよいと思っています。 むしろ、そんな感覚も余計なものでしかないと思っています。 ただ、ひたすら座禅する中で、何かを感得することが大切であって、自分自身で見性するとか、大悟するということは、余計なことです。 ましてや、第3者が(自分の和尚さんであることが多いのですが)、見性したなどと認めることなど、さらさらありません。