あちらこちらで開かれる座禅会では、30分ぐらいの座禅を行って、30分ぐらいの法話を行う例が多いようです。 私が参加させてもらった座禅会でも、そうでした。 小休止をはさんで25分を2回という例もありました。
私は自分の経験からいって、初めてだからこそ1時間の座禅時間が必要と、感じています。 私は座禅(静功)を生まれて初めて行ったときから、最低でも1時間は座禅を行っていますが、今ではそれが当たり前のようになっています。
このブログ上で、いつも30分の座禅時間では、野球でいえば肩慣らしでしかないと云っています。 体の中を流れる気の動きが、30分ではまだ堅さがとれず、45分から1時間しないと滑らかになってこないからです。 その動きが滑らかになることによって、神経細胞が集中する脳を癒し、日常的なストレスから解放してくれるからです。
私たちにセクシャル的な喜びをはるかに超える、崇高な至福感をもたらしてくれるのです。 また静かな状態の中での座禅を通して、私たちに宇宙の叡智が、そっと私たちにサジェスチョンを与えてくれるからです。
30分の座禅では、肝心の本当の意味での良さを知るチャンスを失ってしまうのです。 はじめが肝心で、座禅というものは30分行えば良いと思ってしまうのです。 座禅を指導してくださる方々は、どこまでその辺のところが分かっておられるか、いつも疑問に思っています。
初心者だからこそ30分ではなく、1時間の座禅を行うべきものと、いつも感じているのです。 座禅の素晴らしさを、一人でも多くの人に知ってもらいたいからですが。
私は自分の経験からいって、初めてだからこそ1時間の座禅時間が必要と、感じています。 私は座禅(静功)を生まれて初めて行ったときから、最低でも1時間は座禅を行っていますが、今ではそれが当たり前のようになっています。
このブログ上で、いつも30分の座禅時間では、野球でいえば肩慣らしでしかないと云っています。 体の中を流れる気の動きが、30分ではまだ堅さがとれず、45分から1時間しないと滑らかになってこないからです。 その動きが滑らかになることによって、神経細胞が集中する脳を癒し、日常的なストレスから解放してくれるからです。
私たちにセクシャル的な喜びをはるかに超える、崇高な至福感をもたらしてくれるのです。 また静かな状態の中での座禅を通して、私たちに宇宙の叡智が、そっと私たちにサジェスチョンを与えてくれるからです。
30分の座禅では、肝心の本当の意味での良さを知るチャンスを失ってしまうのです。 はじめが肝心で、座禅というものは30分行えば良いと思ってしまうのです。 座禅を指導してくださる方々は、どこまでその辺のところが分かっておられるか、いつも疑問に思っています。
初心者だからこそ30分ではなく、1時間の座禅を行うべきものと、いつも感じているのです。 座禅の素晴らしさを、一人でも多くの人に知ってもらいたいからですが。
稀に「一日中座禅をした」などと言う人がいますが、長ければ長いほど良いものなのでしょうか?
また、1時間以上座禅をする場合は、中断して歩いて行禅をしたほうが良いのでしょうか?
ただし、その人によって、集中することが出来れば、何時間行ってもよいのではないかと思います。 少なくとも私自身は、3時間でもあっという間に終わった感覚があります。
人間の活動が停止する「定」(じょう)が、一定時間継続することは、悪いことではないと思いますが。
私自身は1時間以上行っても、そのまま座禅を行っていました。 特に慣れてくれば、足も痛くなくなりますよ。 いかに集中して継続できるかだと思うのです。
今、自分は座るのは20分×2回です。短いです。
と言うのは柿の実が熟して来ると、生活の多くの場面が禅の修行になるからです。
例えば、食事禅、風呂禅、トイレ禅、歩行禅などです。
生活が禅の修行になってくるのですね。
禅が出来ないのは、テレビを見ている時、本を読んでいる時、インターネットをやっている時など、意味に意識が引っ張られる時です。
でも初心者の方は座禅できちんとやるべきだと思います。
自分も最初は40分、40分、50分なんてやってました。
心が波立っているから出来ないのか?とか、無心になりきっていないから出来ないのか?意識が内と外に半々になっていないから出来ないのか?などと今まで考えていました。
「意味に意識が引っ張られる」まさにその通りです。
ところで「柿の実が熟して来ると」という部分が理解できません。
柿の実が熟して来る季節以外は、禅の修行が困難になるのでしょうか?寒さ暑さによってでしょうか?
禅境の言い回しで、(正確ではありませんが)
柿が熟して来ると、風もないのに、ぽとりと落ちる
枝には何も残らない(無)。
と言うのが心にあったので、使ってしまいました。秋とは特に関係ありません。長い間、座禅をやってくると、柿の実が熟したというのは、昔の人は良く言ったもので
まさにぴったりの表現なのです。生活のあらゆる面で、スッ、スッと自然に深い禅境に入ります、その感じが
身も心も、あー熟して来たなーとしみじみ思います。
似た表現で
馬に水を飲ませるには、水辺に連れて行かなけれ ばならない、(正確ではありません)
と言うのが思い浮かびます。馬が水を飲むかどうかは、分からない、でも水辺に連れて行かなければ、絶対に水は飲まないと言う意味です。
霧が晴れて、修行の正しい方向が見えました。
水辺に連れてこられた馬になった気持ちです。
私は45分過ぎてからでないと気が収まるべきところに落ち着きません。
もう少し修行が進むとこの間隔も短くなってくるものでしょうか?
確か1年くらい以前は1時間程かかっていたとおもいます。
それにしてもよいブログを発見できて私は喜んでいます。
坐禅の実体験から書かれたものは市販の書籍でもなかなかないですから。
それで、勝手なんですけれど、
私のHP『肴はとくにこだわらず』とblog『坐禅ライフでいこう!』
で貴サイトをリンクいたしました。
もし不適切なら削除しますので連絡ください。ではでわ。
私自身は、自分の体の中を流れる気の動きから、最低でも1時間の座禅を行ったほうがよいと、今でもそう思っています。
座禅を通して日常的な問題を、雑念として考えることから、ものの考え方が出来てくるのではないかとも感じます。 本を読む時には何か分からないことがあるときに、本屋でページをめくり買って読むこともあります。
本で理解するというよりも、あくまで座禅を通して何かを感得するほうが、自分自身のものになってくるのではないかと、いつも思っています。
座禅は修行するというイメージが強いのですが、私は座禅を楽しむ感覚が好きです。 当初は逆腹式呼吸を楽しんでましたが、今は胎息を楽しみながら、座禅を行っております。
ただひたすら胡坐を組んで、呼吸法を伴う座禅を楽しめれば、全ての出来事を楽しむことが出来ます。 ひたすら座禅、好きな言葉です。
しかしながら、平静時も逆腹式呼吸を行っていると、いつも腰に力が入っているため腰痛の原因になりやすいそうです。
「順腹式呼吸をベースにして、剣の練習の時のみ逆腹式呼吸に切り換える」
または、「逆腹式呼吸をベースにして、腰に負担がかかる運動時のみ順腹式呼吸に切り換える」
このどちらかの選択になるように思います。
どうして逆腹式呼吸が、腰痛の原因になるのか分かりませんが。