「形」の謂れ(いわれ)-4・・・・トラスの形

2011-06-28 12:17:05 | 形の謂れ
[リンク先追加 20.46]

喜多方の煉瓦造では、そのほとんどがいわゆる「トラス:洋小屋」を使って屋根を架けています。下の写真の上2枚は、このシリーズの最初に紹介した樋口家の煉瓦蔵内部、小屋組の詳細です(3枚目は2階床梁の煉瓦への納め)。



しかし、これらをつくった喜多方の工人:実業者は、「トラス」という言葉は知らなかったのではないでしょうか。
もちろん、「煉瓦造」⇒「西欧の建物」⇒「西欧の小屋組:トラス」、という発想で、つまり、煉瓦造には洋小屋:トラス、と思って使ったわけでもありません。
なぜなら、以前にも紹介したように、喜多方では、木造の建物の屋根にも、ごく当たり前にトラスが使われているからです。
その写真だけ、再掲します。農家の納屋の小屋組です。



   なお、08年11月の「喜多方訪問・余録・・・・喜多方のトラス」に、
   登り窯の木造の覆屋のトラスと、少し大きい煉瓦組積造に使われているトラスの写真があります。
   この二例は、ともに、梁行4間:約7.2mのトラスです。

現在の建築関係者(学習中の方がたも含みます)の多くは、「トラス」というと、材料の長手方向(「軸」方向と呼んでいます)の強さだけを使った工法、すなわち、部材を横から押して曲げようとする力はかからない、という「力学」が教える「知識」で「理解」するのではないでしょうか。
そして、さらには、その具体的な「形」としての「キングポスト」、「クィーンポスト」・・・といった「具体的な姿」をもって「理解」するに違いありません。

けれども、いわゆる「トラス」組は、力学誕生前から存在します。
   古い住居の「又首(さす)」あるいは「合掌」だけで三角型をつくる屋根組は、
   トラスの最も単純な形、と言えます。
   これは、竪穴住居以来の方法で、日本に限らず、世界の各地域で行われています。

つまり、「力学」の知識の下で生まれたものではない、ということです。
このことは以前にも下記で触れています。

「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」

西欧の「建築技術」を詳述している 滝 大吉著「建築学講義録」にも、当然ですが、「トラス」組も紹介されています。しかし、トラスという語で紹介はしていません。
その一例が下図です。



これは、いわばトラスの完成形の一つ。
いきなり、こういう形が生まれたわけではなく、そこに至るまでには、多くの試行錯誤があったはずです。

先の「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」では、「建築学講義録」の洋小屋についての解説を紹介しましたが、そこでは、小屋を組むにあたり、諸種の場面ごとに、そこで生じる「問題」を解決するための種々な方策、という形で解説がされ、「リキガク」の「リ」の字も出てきません。
下図はそのときに載せた図版の再掲です。



   いわゆるトラス組の「発展」過程を見ることができる典型例として、
   以前に長野県塩尻にある小松家を紹介してあります。下記をご覧ください。
   きわめて単純な、又首:合掌と、又首が撓むのを防ぐための、きわめて単純な手立てを見ることができます。
    「トラス組・・・・古く、今なお新鮮な技術-4(増補)」
      

それぞれの「形」には、それぞれ、そのようになる「謂れ」があります。
「こんな形にしたい」などとという「願望」が先にあるのではありません。

この場合には、こんなことが起きてしまうから、そうならないために、こうしよう、という手順でできあがるのです。そして、そのとき、できあがる形を「成丈格好よく」しよう、という気持ちが働いています。
これが、本当の意味の「デザイン: design 」ということ。
それぞれの「形の謂れ」の詳細は、前掲の「・・・新鮮な技術-3」をご覧ください。
   現代の《建築家》には、たとえば張弦梁をどこかで知ると、必要もないのに使いたがる傾向があります。
   張弦梁というのは、弓の原理を使って長い距離を跳ばす方法。

重要なのは、「建築学講義録」では、いわゆる「力学」的解説はまったく為されていないことです。

なぜ重要なのか?

そこで為されている「解説のしかた」は、「建築する」場面で、当面するであろう問題を、どうやって解決するか、という「考え方」に徹しているのです。
たとえば、「又首で屋根を組んだが、幅が大きくなると、又首の斜め材が撓んでしまう、どうすれば撓まないようにできるか・・・」といった具合に説明が進みます。
   「建築する」とは、字の通り、「建て築く」意です。
私は、こういう考え方:発想は、きわめて「基礎的・基本的な発想:見かた・考えかたである」と考えていますが、残念ながら、今の多くの建築関係の方がたは、これが不得意のように見受けられるのです。
とりわけ、《学的知見》を先に身につけてしまっている若い方がたは、きわめて不得意のようです。
私は、「力学」の知識を身につけ、それを「知恵」にまで高めるためには、この基礎的・基本的な見かた・考えかたが必須であろう、と常々思っています。
それは、「こうしたら、何ごとが起きるか、生じるか、直観で見る、直観で理解する」こと。
そのためには「経験」が必要なのです。
「直観」は、日ごろの暮し、日ごろの経験の中で培われ、鍛えられるもの。ところが、どうもそれが希薄のように見える。
「直観」なんていうのは、非科学的と「思い込んでいる」、あるいは、「思い込まされている」からのようです。
そうではありません。これについても、これまで、いろいろと書いてきました。
たとえば
「東大寺南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握」
「建物をつくるとは、どういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力」[追加 20.46] 

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