「日本家屋構造・上巻、中巻」の紹介を終えて

2014-06-26 10:45:19 | 「日本家屋構造」の紹介


少し時間がかかりましたが、「日本家屋構造」上巻、中巻、ひと通り紹介させていただきました。参考図主体の下巻も、おって紹介させていただくことにします。

この書については、実を言えば、これまで必要に応じ当該箇所を拾い読みする程度で、端から端まで目を通したのは、私も今回が初めてなのです。
今回全貌を知るに及んで、これは何もこの書に限ったことでないのは当たり前ですが、あらためて、世代によって、この書に対する対し方が大きく異なるに違いない、と思いました。

たとえば、大きく《開発》が進み《東京風に都会》化した地域で生まれ、そして育った(そしてそれが「普通」と思っている)世代の方がたにとって、この書の言う「普通家屋」なる建物の姿をイメージすることは至難の技であり、おそらく珍奇なものに映るはずです。自分の家はもとより、身の回りに目にすることもないからです。簡単に言えば、《絶滅危惧種》を探すようなもの・・・。

一方、いわゆる《現代的開発》から「取り残され」、いわゆる《現代的繁栄》とも程遠い地域に生まれ育った方がたにとっては、自分の「家」や、あるいは「隣近所の家々」「近在の家々」について、つまり「身近なこと」について書かれている、そう思うに違いありません。そして、「あそこのところはこうしてつくるのか」、「あそこはこうなっているのか」・・・、とあらためて知って納得するのではないでしょうか。
   私が育った家は、昭和15年(1940年)に建てられた建物。ほぼこの書のいう「普通住家」に一部洋室を追加した大正~昭和の頃の典型的な建屋でした。
   雨戸の開け閉めは子どもの役目。雨戸の話は、子どもの頃を思い出させ、その桝目で「九九」を学んだ竿縁天井の「構造」では、天井裏を覗いたときのことを
   思い出しました。
   私が「ベニヤ板」という語を知ったのもこの竿縁天井。天井板が杉の杢目の薄板(veneer)を貼った「合板」だった。当時は「合板」の「創成期」だったのです。
   雨漏りでシワシワになったのを覚えています。糊に耐水力がなかったのでしょう。
   それゆえ、身構えるような門や玄関などの項を除けば、この書に違和感を覚えるところは少なく、むしろ新たな「知識」を教わる点がかなりありました。

最近会った若い大工さん(若いと言っても40代はじめと思いますが)も、この書の紹介を読んでいただいておりました。
詳しく聞いたわけではないのですが、この方の場合は、「現場」で親方からいわば「身をもって」教えられてきたことが「文章化」されている点に「関心」があったようです。多分、こういう仕事が最近は減っているはずですが、紹介されていることの大半は「分ること」のように思われました。

つまり、ある事象を(たとえば、この書の内容を)「分るか、分らないか」は、先ず第一に、その人が、何処で(どういう環境: surroundings で)生まれ、育ったか、が大きく関係しているのです。要は、「経験」「体験」の「内容」次第ということ。単に「語彙」を知っているだけでは「分っている」ことにはならないのです。
   「語彙」を知ることは勿論必要です。
   ただ、「語彙」を知っているだけでは「知ったこと」にもならず、必ず、その「裏打ち」としての「具体的な事象との遭遇」が要るということです。
   あえてこんなことを言うのは、最近、「日本家屋の名称」の検索から当ブログに寄られる方が妙に多いな、と感じているからです。
   「日本家屋」で何をイメージしているのか、あるいは、なにゆえに「名称」を知りたいのか、を知りたいものだ、といつも思います。

では、この書の書名は、なぜ「『日本』家屋構造」となっているのでしょうか?「日本」と限定することにどういう意味があったのでしょうか?
最近の日本人のある部分にまたぞろ見かけるようになったいわゆる「ナショナリズム」的意味があったのでしょうか?
この点を理解するには、「この書の刊行の謂れ」を知る必要があります。
この書は、代々大工職の家に生まれ育った著者・齋藤兵次郎氏が、氏の勤める東京高等工業学校で建物づくりについて学ぼうとする若い人たちのための「教科書」として編んだ書です(「『日本家屋構造』の紹介-1」の序文参照)。
東京高等工業学校は、現在の東京工業大学の前身です。これがどのような教育機関であったかは、当時:明治期の建築教育の様態を知る必要があります。
   この点については、すでに下記で大まかに触れていますのでご覧ください。
   ① 「日本の『建築』教育・・・・その始まりと現在
   ② 「『実業家』・・・『職人』が実業家だった頃
   ③ 「語彙にみる日本の建物の歴史・・・『筋交』の使われ方
   ④ 「日本インテリへの反省
明治政府は、我が国の「近代化=西欧化=脱亜入欧」策の一環として、建物の西欧化を期し、そのための教育機関を設立します。工部大学校・造家学科、現在の東京大学工学部の前身です(①をご覧ください)。
「西欧化」が主眼ですから、そこでは当初から自国の建物づくりについて知ることは不要とされました。
ところが、「近代化」を学ぶために西欧に留学した《エリート》たちが知ったのは、西欧の人びとは、「自国の建物」、というより「自国の文化」を当然のこととして会得している、という事実でした。「日本建築辞彙」の著者の中村達太郎氏もそのひとりです。そこで、「反省」し、自国について、やっと学び始めるのです。そして、わざわざ「日本」家屋とか「日本」建築という呼称がを付けられるようになるのです。この点については、③をお読みください。
一方、そういう教育に異を唱えた方も居られました。「建築学講義録」を著した滝大吉氏はその先駆者でしょう。②で触れていますが、そこでは、西欧、日本の別を特に意識することなく、「建物を『造る』技術」の視点に意を注がれています。
   今でも、日本の木造建築は世界一、などと思っている人が結構居られます!こういうランク付け・比較はまったく無意味・無用です。
   日本(という地域)には、「その環境: surroundings 」に見合う建築技術として独特の木造建築技術が培われた、に過ぎないのです。
   どの地域でも全く同じ。それぞれの地域にその地域特有の技術が育つ。この厳然とした事実がとかく忘れられる
。これについては④をお読みください。

それでは、この「教科書」で学んだ高等工業学校の学徒たちにとって、この書の内容はどのように受けとめられたでしょうか?
多分、そこで例示されている諸事例は、彼らにとっては、特に目新しいものではなかった、と思います。たとえば「家屋各部の名称」も、「名称」は知らなくても、その名を付けられている「「もの」そのものは、どれもどこかで目にしたことのあるものであったに違いありません。つまり、名前を知らなかっただけ。小屋組その他の構造部材についても同様だったでしょう。当然、いわゆる「普通住家」なども決して目新しいものではなく、ことによると自分の家がそうだったりする・・・・。身構えるような門や玄関なども、身近なところで知っている。だから、この書の内容についての彼らの「理解」は、容易であり、早かったのではないかと思います。

ところが、今はそうはゆきません。かつてはあたりまえであった我が国の建物を理解するためには、先ず、「そういう事例の存在を知る」こと、「目にすること」、あるいは「目にする機会を用意すること」・・・から始めなければならないのです(こんな「先進国」は日本だけでしょう)。
そのような「用意」として、各地に「建物」や「街並」が「文化財」として維持保存され、あるいは「資料館・博物館」なども設けられています。しかし、私には、いずれもが単なる「観光資源」扱いにされ、本来の「文化を知る」ための働きをしているようには思えない場合の方が多いように思えます。
   私は、「文化財」よりも「文物」という表記の方が適切ではないか、と考えています。中国では「文物」です。
   文物 : 一国の文化が生み出したもの。芸術・学問・宗教・制度などを含めた一切のもの。(「新明解国語辞典」)
最も最近の例で言えば、今話題の「富岡製糸場」。訪問者の多少に一喜一憂しているだけでよいのでしょうか。この「遺構」について、5W1Hで問う気配がまったく感じられません。5W1Hで問うとき、見えてくるものはきわめて豊饒のはずなのです。
   富岡製糸場が、なぜ完全な形で現存し得たかについて詳細に報じたのは、私が知る限り、毎日新聞だけでした。
   富岡製糸場を政府から引き継いだのは民間の片倉工業です。
   片倉工業は、富岡製糸場存立の「意義」を深く認識し、工場の稼働停止後も、製糸場全体の機能維持に全力を挙げてきたのです。
   それゆえ、現在でも、機械等はすぐに動かせるのです。
   片倉工業は信州諏訪の片倉家が創業した製糸業。
   諏訪にも製糸工場があり、諏訪地域の人びとに広く開かれた温泉保養施設「片倉館」を建てたのも片倉工業です。今も活きています(重要文化財のはず)。     
   また、富岡製糸場の開設にあたり大きな力があったのは、「指導」「支援」にあたったフランスの一青年の尽力です。
   彼は、単に母国の「先進技術」をそのまま富岡にもってきたのではありません。彼は、日本の生糸生産地を訪ね日本の技術を調べ上げ、
   日本の状況に適した器械を設計し、場所を慎重に選び、富岡製糸場を造ったのです。片倉工業は、この考え方・精神を「尊重」「継承」したのです。
   私たちは、富岡製糸場を通し、近代フランスの青年の「思想」と、「経済」の王道をゆく明治の「企業人」の「考え方・思想」に迫ることができるのです。
   この「思想」は、かの「近江商人」の思想にも通じる近世の人びとに通底する「経済」観と言ってよいのではないでしょうか。
   そしてそれはいずれも、現代日本の人びと、特に政治家や企業人そして学者の多くが、どこかに置き忘れてきてしまった「思想」のように私には思えます。

さて、このような現在の「文化状況」は、どうしたら乗り越えることができるのでしょうか。

それは、「明日」は「今日」がなければ成り立たず、「今日」は「昨日」がなければ成り立たないのだ、という厳然たる事実を、各々が認識に努めることではないか、と私は考えています。すなわち、「歴史を正当に認識する」ということ(もちろん、「認識する」とは、今一部の人びとにみられるような「自分の都合のよいように認識する」ことではありません)。
もっと簡単に言えば、常に「謂れ」を考える、すなわち常に5W1Hで問い続けること。
とりわけ、近世~現在の変遷を、多少でも身をもって体験・経験し得た私の世代の責任は大きい、と思っています。


ところで、「日本家屋構造」の初版は明治37年です。
その十数年前の明治24年、濃尾地方に大きな地震がありました。新興の建築家・建築学者を震撼とさせた「有名な」地震です。多くの建物が被災しています。大半が木造の建物です。
   もちろん、木造ゆえに被災したのではありません。大半が木造だった時代ですから当たり前です。
   しかし、一部の学者は「だから木造はダメだ」と騒いだ・・・。この《伝統》は、依然として現在も学界に「継承」されています。
   この点については、下記で触れています。
   「学問の植民地主義
   「木造家屋と耐震・耐火研究」[リンク先を追加しました。26日16.05]
濃尾地震の後、学者の間では、上記記事でその詳細を触れているように、木造建物の「補強策」が話題になりました。軸組に斜材を入れる方法がクローズアップされます。すなわち「筋叉(筋違)」。
また、金物(主にボルト締め)による仕口の「補強」も薦められ始めます。

では、そういう地震被災の後に刊行された「日本家屋構造」に、最新の「耐震策・技術」が紹介されていたでしょうか?紹介してきたように、「筋叉・筋違」の語は、何処にも見当たりませんし、金物使用も、西欧の工法の紹介どまりと言ってよいでしょう。

つまり、この書の著者は、大地震を経験後も、近世の工法(石場建て、軸組、小屋組を「貫」で縫う工法)を、いわば自信をもって紹介していた、と言ってよいように思えます。
   現在では、大地震を経験後十年もすれば、かならず《新たな耐震補強策》が奨められているでしょう・・・・。

「日本家屋構造」の所載の内容は、図版を含め、多くの現在の建築関係参考書に編集・転載されています。実際、日本の近世までの建築技術は、職方の家に秘匿されていましたから、この書はその意味で極めて稀有、貴重だったのです。
この書の内容には、若干、私には「形式」化した「型の継承」としか思えない箇所がありますが、そのような「形式化」現象をも含め、、そこに至るまでには、はるかに長い「前段の経緯:歴史・謂れ」があるはずです。
その「謂れ」を見通し得たとき、明日も見えてくるはずだ、そのように私は思っています。「形式化したがる」のも人間の本性、その「形式」は何を意味しているのか・・・。

それにしても、紹介しながら新たに学んだことがたくさんありました。何とかの手習い・・・。

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