「情 景 二 題」  1983年度「筑波通信№9」

2020-01-28 10:02:08 | 1983年度「筑波通信」

PDF「情 景 二 題」 1983年度「筑波通信№9」

  情 景 二 題

 土浦の駅も今年になって駅ビルが建ち、何の変哲もない普通の近代的な駅になってしまった。昨年までは、一説によれば船に見たてたというそれなりに風情のある木造の建物だった。地力の都市の玄関である国鉄の駅には、このようにその土地のイメージ、シンボルをそのまま形にしてしまった例が、かつては少なくなかったように思う。寺院をかたどった奈良の駅などは、未だそのままだろう。
 その駅の建物も、その都市が元来その門前町として発展してきた、ある寺院を模したものであった。大きな地方都市の駅前ならどこでもそうであるように、この地力中心都市の駅前にも、ロータリーと噴水のある駅前広場があり、バスやタクシー、そして人の群れであふれている。駅側から広場の対岸へは、横断地下道も通じていた。

 ある冬の朝、私はその駅前の、広場をはさんで駅の真向いにあるビルの最上階の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。広場を目の下に見ることができる私の席には、冬の朝日がたっぷりと差しこみ、それだけでも外とは比べものにならないほど暖まっていた。北国の町並みは朝もやのなかにかすみ、昨夜町にも散らついた雪で化粧した山々も、遠くまた近く、朝の光の中で鈍く輝いている。駅前では朝のラッシュが始まっていた。
 私は何ということもなく、ただ広場をぼんやりと見おろしていた。しばらくして私はあることに気がついた。たしかに駅前に車も人もあふれてはいるのだが、それは東京の大きな駅のようにのべつまくなく群れているのではなく波があるのだ。いっとき広場一帯が車や人であふれたかと思うと、次の瞬間にはそれが消えてしまう。どうやらそれは列車の到着・発車時刻と並行しているようだ。列車の時刻が近づくと、広場にバスが集まり始め、そして、最盛期にはあっという間に、それこそ身動きができないほどにバスで埋ってしまう。バスから降りた人たちが、寒そうに駅舎の中に吸いこまれる。そして広場は、空のバスだけとなり閑散となる。しかしそれも束の間、今度は駅舎からどっと人が吐きだされてくる。列車が着いたのである。人々はそれぞれ、歩き、そしてバスに乗り、人もそしてバスも広場から去ってゆく。静かになり始める。駅前には、タクシー待ちの人たちの列とタクシーの列が残っている。がそれも一人また一人、一台また一台と消え、そして、次の列車の到着時刻のころまで、広場にはほんとの閑散が訪れる。 10分もすると、早々と客を送り届けてきたタクシーがぽつりぽつりと戻ってきて、タクシーだまりが埋ってくる。客はいないから、運転手たちは三々五々立ちばなしなどしている。一時の広場の休息の時。歩く人もまばら。人の群れ、車の群れに隠れていた噴水が、多分薄く氷が張っているのだろう、鉛色の水面に落ち、時折吹く寒風にあおられた水が、池の外の路面をぬらしている。
 このような波が、さきほど来もう何度となく繰り返し、広場に押しよせ、そして引いていっていたのである。おそらく、この波動は、その間隔の長短こそあれ、朝から晩まで駅頭を洗い続けているのである。そして、東京あたりの大きな駅でもこれとほぼ同様なことが起きているはずなのだが、ただ、列車の間隔が短かく、そしてまたいくつもの線が乗り入れ、しかも相互の接続も考慮せずに次から次へといわば勝手な時刻に到着し発車するから、全体としては均されてしまい、このようなめりはりのある波動が感じられず、いつでもわさわさしているのである。そしてその場合、ラッシュ時には、ある時間幅で大きくふくらんだ波が津波のように押し寄せ、さきほど書いたこの地方の駅頭を洗うリズミカルないわば心地よくなじめる波動というものは全く感じられない。
 私は興味をそそられて、この駅頭を洗うリズミカルな波の動きを観察し続けた。私があんなにまじまじとバスの屋根を見たことは、そのときまでかつてなかったろう。色とりどりに塗られたバスの胴体はいやでも日常目に入るが、屋根など普段は気にもしていない。それはなかなか愛きょうがあった。ここのバスは全体にてんとう虫かなにかの虫の背中のようだった。ビルの中は厚いガラスで外の音があまり聴えてこないから広場をそういった虫がうごめいているように見えた。

 その押しては返す駅頭の波打ちぎわに、波に動ぜず立ち続ける人物がいた。人の波に埋もれても、波が引くと、相変らず前の所に立っている。駅舎の前ではなく、そこから少し離れた横断地下道の入口近く、人の流れ路からわずかにはずれた所にその人は立っている。若い女性のようである。初め私は気がつかなかったのだが、彼女はもう大分長いことそこに立ち続けていたようだった。彼女は駅の方に向き、列車が到着し、しばらくして人々が駅舎からあふれでてくると、二三歩前に出て身を乗りだすように人波に目をやっている。人を待っているのだ。待ち人は列車に乗ってやって来る。寒いのに、駅舎の中で待てばよいのに、などといらぬお節介めいた思いもわいてきたが、あそこで待つにはそれなりのわけがあるのだろう。人波がまばらになり、待ち人は今度の列車でも来なかったらしい。彼女は再び元の場所に戻る。かなり長いこと彼女はこれを繰り返していたのである。
 私が彼女の存在に気づいてからも、もう三四回は波が打ち寄せたように思うが、待ち人は一向に現われない。何回目かの波が引いていき、広場が閑散となりかけたとき、ついに彼女はあきらめたらしい。やおら彼女はその場を離れ歩きだした。その時、一瞬、腕の時計に目をやったようにも思う。彼女は、ゆっくりと二三歩駅の方へ向う素振りを見せたあと、ひるがえって今度は地下道に向い足早に歩きだした。時計に目をやったように思えたのは、あるいはその時だったかもしれない。彼女は駆け降りるようにとんとんと階段を降りだした。何も知らない人には、それは軽やかな足どりに見えただろう。だが、二三段降りたところで、私は彼女のリズミカルな足の運びが一瞬乱れたのを見た。それは一瞬にもならないほんとにわずかな時間であった。降りるのをやめようとしたかのように見えた。それはおそらく、もう少し待つべきではないか、今去ってしまうとすれちがいになってしまわないか、駅の伝言仮にでも書くか、しかしそれはまずい、・・・・といった彼女の心の内に交錯した思い、迷いの卒直な表われだったのだろう。そして再び一瞬後、彼女はそれを振り切るかのように、前よりも更に足早に地下道へ消えていった。
 
 文章にすると長くなるが、彼女が待つのをあきらめて歩きだし、そして地下道に吸いこまれるまでのできごとは、ほんの数秒の内に起きたことで、普段なら私だって気がつかなかっただろう。
 駅前では朝のラッシュも終りに近づき、列車を降りる人も、そして待つ人たちも少なくなり、駅前特有の昼間のけだるさが訪れかかっていた。

 

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 そのとき建築学科の学生であった彼は、夏季休暇で家に帰っていた。彼の家は地方の小都市にあった。その町は歴史の古い町で、そういう町によくあるように、明治のころに建てられた洋風の建物がまだあちこちに残っていた。
 夏休みの宿題に、彼には建物のある風景のスケッチを描くことが課せられていた。そして、彼はこの洋風の建物の一つを描くことにした。彼が描く気になったのは、病院の建物であった。白っぽいペンキの塗られた木造洋風の二階建の建物で、囲りにはこれも古風な柵がめぐり、そこに開いた門のわきには、そういう建物にはよくあるように守衛所があって、そこには守衛が一人、所在なさげに座っていた。その門へ通じる道の両わきには、これも建物と同じぐらい年月を経ているのだろうか、大きな街路樹がならび、道の上におおいかぶさっていた。さながら緑のトンネルとなったその道は人通りはさほど多くはなく、ただ真夏の太陽が木もれ日となり路面にさしているのが印象的であった。
 彼は、その道のやや病院よりの場所に画架をすえ、そこから木の間ごしに見える建物を描くことにした。よく晴れあがった暑い日の昼下り、その町は盆地にあるから暑い日は滅法暑くなるのだが、この緑の通りだけは時折涼風が吹きぬけ別天地のようだった。通りには涼をとりがてら散歩する人をちらほら見かけるだけだし、病院の構内もときどき白衣の人が通るだけ。あたりには夏の日の午後の静けさがあった。
 彼のスケッチは順調に進んでいたわけではなかった。こった造りのあの洋風の建物は、絵にするとなると結構難しい。はかばかしくなかった。散歩のついでの道草に、彼のスケッチをのぞきこんでゆく人もいた。彼にとってそれは、仕事がうまくいっていないことも手伝って、いらだたしく、うっとうしかった。時間はいたずらに過ぎていった。彼は、今日はもうやめにして明日また来ようかと思いだしていた。
 そのとき、彼はまったく気づいていなかったのだが、彼のそばに和服姿の老人と若い女性が立っていた。彼の後から彼のスケッチを見ている。彼はちらっと彼らを見た。こざっぱりとした身なりの品のいい老人と、大きな麦わら帽子をかぶり清々しいワンピース姿の、年のころ二十四・五の女性であった。二人は連れらしく、どうやら女性の方が絵に関心があるようだった。彼はなんとなく気恥しく、思わず顔が紅くなるのをとめようがなかった。彼女はなお熱心に彼の手先を見つめている。彼の手はますます重くなった。やがて彼らが立ち去る気配を見せ、彼は内心ほっとした。と、そのとき、彼女が後から声をかけた。「明日もいらっしゃるんでしょう?」彼は突然のことにどぎまぎし、あいまいに「ええ、まあ」とだけ応えた。彼らは病院の方に向って、老人の歩調にあわせ、ゆっくりと歩み去った。あたりには、また元どおり、木もれ日が鮮やかに地面に落ちていた。彼はそれっきり、その女性のことなど忘れてしまっていた。
 翌日はあいにく天気はよくなく、ときどき雨がぱらついた。彼は絵を描きにゆくのをやめにした。

 次の日は、再びよく晴れあがり、また暑くなった。あの通りの風景は地面が少し湿っぽい他は一昨日と何も変らず、路面にはあいかわらず夏の陽ざしが木もれ日となり落ち、涼風が通りすぎていた。
 彼が画架をひろげてしばらくたったとき、病院の守衛が彼の方に向って歩いてきた。一昨日ここで絵を描いていた人と同じ人かどうか確認したあと、守衛は彼に白い紙袋をさしだした。けげんそうな顔をした彼に守衛は説明しだした。昨日の午後、若い女の人が尋ねてきて、あそこで絵を描いていた学生さんがもし来たら渡してくれと頼まれたのだという。彼がその日も来ると言っていたので来てみたけれどもいない、少しは待ったのだが列車の時刻がせまり、もう時間がない、とのこと。聞けば、数日の予定で、その病院に入院している祖父を見舞にはるばる京都から来ていて、その日の夜行で帰るのだという。
 彼は、もうすっかり忘れていた一昨日のことを思いだした。大きな麦わら帽子をかぶりワンピースを着た女性が、老人と連れだって、病院の方へ通りを去ってゆく光景が、ありありと目の前に浮んできた。あの女性だ、と彼は思った。彼の心は騒いだ。守衛はことの一部始終を話し終わると、門の方に帰っていった。

 白い紙袋の中には、とりどりの菓子が入っていた。
 彼は、なにか非常にとりかえしのつかないことをしてしまったのではないか、との思いにとらわれてしまっていた。
 あのときはさほど気にもとめず、ちらっとしか見なかったあの女の人の姿を、探るようにして思いだそうとしても、彼の内に見えてくるのは、あの大きな麦わら帽子と清々しいワンピースの姿だけであった。彼はもどかしさを覚えた。どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう。どうして昨日描きに来なかったのだ。どうしてどうでもいいような返事をしてしまったのだろう。彼は自分をのろいたかった。

 今でも、夏のふとした一瞬などに、あの大きな麦わら帽子、ワンピース姿、木もれ日・・・・など、あの時の光景が突然彼の目の前に浮んできて、そのたびに、あのある種のもどかしさと、とりかえしがつかないとの思いがないまぜになって、彼の心の一角を横切っては消えるのである。
 重要文化財に指定されてしまったあの病院も、今は他所に移設されてしまって、もうない。そして、あの風景も、今はもう、わずかに彼の心の内に残っているだけである。

 


あとがき

いつもなら、駅頭で目にした情景をもとに、たとえば「駅」についての考えかたの移り変りなどについて、ながながと書くはずである。最初はそのつもりであった。ところが、途中で、後段の話をたまたま耳にして、その話も紹介したくなった。というのも、こういう類の体験は、おそらくだれもが、程度の差こそあれ味わっているのではないか、しかし、普段はすっかり忘れてしまっているのではないか、たまにはこんなこともあるのだ、と思いだし、思い起してみるのもわるくはない、そんな風に思ったからである。そして、今回は何も言わずに、情景だけを書くことにしたのである。

とは言うものの、感想を一つだけ書く。
〇後段の彼の話を聞いたとき、私にも、おぼろげながらその光景・情景を描いてみることができた。そして多分、私もまた淡い悔恨の情を抱くにちがいない、とも思った。ただ、私には「とりかえしのつかない」ということばが今一つ心のどこかにひっかかってならなかった。私はあえて、とりたてて「とりかえしのつかない」と言うようなことはない、と言い切ってみた。当然のことながら、そんな不遜なことが言えるのか、というような反論が返ってきた。はっきりと論理だった理由の用意があって言ったわけでもないから、そう反論されると口をつぐむだけだった。しかし私は、そうかといって前言を撤回したわけでもなかった。
 もし彼が、翌日も絵を描きにきて、あの女性と話を交わし、そしてその日が過ぎていったとしたならば、彼の内にそのときのイメージが強く残っただろうか。まして、昨日のうちに今日のことが全く予想できていて、そのとおりになったとしたならば、やはり何事も残らなかっただろう。残念ながら、私たちには明日の予測はできない。今日になって、昨日までのことをあとづけることだけができる。そしてそのとき、あそこでああしたらこうなっただろう、と思うことはできる。しかしそれは、つまるところ結果論でしかない。悔んだとて戻れるわけがない。そういうように考えるなら、生きてゆくということには、とりかえしのきくことなどなく、全てがとりかえしのつかないことなのだ、と私は思う。おそらく私が「とりかえしのつかないことなどない」などと言ったのは、だったら「とりかえしのきくことを見せてくれ」と言ってみたかったからではないだろうかと思う。えらく強気のように聞えるかもしれないがそうではない。私の内にだって、無数に近い悔恨の情がうず高く積っている。時折精確な人生の設計図を描いておけばよいではないか、などという思いがわかなかったこともないけれども、つまるところ、それは建物の設計以上に難しい。というより不可能に近いだろう。そういえば私が子どものころきらいな質問は、大人が好きでよくやる「将来何になりたい?」という問いかけだった。私はいつも困惑した覚えがある。今の私だったら、なるようになる、などと小生意気なことを言ったかもしれないと思う。もちろん心のどこかに願望めいたものがないわけではなかったろう。しかし、それがどう具体化されるか分りもしていないのに、結果だけを言うのにはためらいがあったのだ。今の私も、基本的には何も変ってないようである。今私は大学の教師をやっているけれども、私の過去のどこを探しても、大学の先生になるなどという願望など見つからないだろう。あるいはそれは、とりかえしのつかない道に入ってしまったのかもしれないけれども、先行どのようになろうとも、それを帳消しにするわけにはゆかないのである。その意味では、あの駅頭の彼女のように、一見軽やかな足どりで、これからも更にうず高く積るであろう悔恨の情を背負いつつ歩くしかないらしい。建物の設計もまた然り。うまくいった、と思うのはそのときの、しかも単なる自己満足にすぎぬかもしれず、何らかの悔恨の情は必らずついてまわる。それでも設計をやるというのはいったいなぜなのか、設計などやれる器か、などと自問自答しはじめ、自分は偽善者ではないか、と思いたくなるときもある。

年が暮れる。新年もまた、それぞれなりのご活躍を!
          

         1983・12・1           下山眞司 

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