「想定外」と「絶対」・・・・近・現代工学の落し穴

2007-09-05 19:51:27 | 設計法

[一部字句修正:9月6日9.10AM]

 たとえば、柏崎刈羽原発の設計にあたって、450ガルの揺れを想定して設計した。中越沖地震の揺れは900ガルを越えるものだった。すなわちそれは「想定外」だった・・。
 浜岡原発では、1000ガルを想定して「耐震補強」を行おうとしている。これに対して、1000は小さすぎる、という見解もあるが、「調査によれば1000が最大というデータが得られている」・・。

 これらの「事実」は、現在の「設計」では、ある「想定した目標」を設定し、「それに対応した設計を行う」という方法が定着していることを示している。
 したがって、もしもその「想定値」を疑いだしたら、設計はできない、という方法。ゆえに、設計するためには、「想定値」は「絶対」でなければならないことになる。

 しかし、この「絶対」は絶対ではない。それは、「耐震《基準》」が、ことあるたびに「改変」されることで明らかだ。それをして、「科学の進歩」「学問の進歩」と言ってお茶を濁すのは、「ずるい」のではないか?
 《識者》もまた、基準の「変更」を《改訂》と言うが、それは言葉で「正当化」を図ろうとするきわめて「ずるい」方法だ。

 第一、ことあるたびに変えなければならない、という事実にあった時、しかもそういうことに何度もあったとき、普通の感覚を持っている人なら、「地震は全く分っていない」、ゆえに「基準など設定できない」と判断するのがあたりまえではないか。私には、それこそが「科学的:scientific」な判断だと思える。

 しかし現実はそうではない。「設定したがる」。それは、現代工学的発想のなせるわざだ、と私は思う。「そうしないと設計ができない」という思い込みが真底まで浸透しているのだ。


 そしてまた、何度も行われてきた「改訂」にあたり、それ以前の《基準》は誤りだった(そういう値を基準に設定したことは、誤りだった)という「お詫びの言葉」があってしかるべきなのだが、あった例がない。一方的な「通達」だけ。

 たとえば、耐震《基準》が変ったとき、それ以前の「《基準》の策定にかかわった全ての人たち」が、懲戒処分を受けたことがあっただろうか。皆、のうのうとして今も暮している!彼らはいつでも「絶対に」安心なのだ・・。
 もしも「処分」を下す習慣があれば、「いい加減な」基準値を設定する習慣もなくなるはずだ(たとえ、よく分っていなかったからだ、と言い訳をしても、結果としては「いい加減なもの」であったことに変りはない。そのことの認識が必要だ、ということ)。
 識者と、それを利用する行政官僚つまりお役人というのは、まことに楽な商売。いつでも権威・地位に胡坐をかき、四周を見下していればよいのだから・・。

 私は先回、床暖房を温風による方法にしたことを紹介した。なぜなら温水は万一漏れたら問題が大きいから、と考えたからだ。
 このように言うと、おそらく、温水床暖房を進めているガス会社や電力会社は、「今の温水配管は、長尺ものを使うから絶対に問題は生じない」と言うだろう。

 しかし、私は「世のなかに《絶対》は絶対にない」と考えている。
 そもそも「絶対」という概念は、「机上で想定された概念」にすぎず、「絶対に存在する概念ではない」。つまり、「絶対に安全」ということは、絶対にあり得ない。
 けれども、「絶対」を設定すると論を進めやすい。一気呵成に話が進む。これが近・現代の工学がとった方法。
 そこでは、いわば適当に(この表現が気にいらないならば、「学問的に」)設定した数値を「絶対」値と見なして設計する方法が行われる(たとえ「学問的に」調査を行って得たデータであろうが、それは「適当な」数値であって、「絶対」の数値ではない)。

 私は常に、絶対は存在しない、という考えで物事に対したいと思っている。何のことはない、それは「近代化」以前の人々の発想法だ。それは、眞島健三郎氏の言葉で言えば、剛ではなく柔で考える方法。自然に腕ずくで対応するのではなく、むしろそんなことは不可能だ、とする考え方。どう考えたって、その方が道理。
 自然を研究するのは結構。しかし、だからと言って、自然を征服できると考えるのは論理の飛躍。私はそう考える。 
コメント (5)
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