打算の思考-2・・・・「科学技術」への追従

2007-09-26 08:33:56 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 先回紹介した講演の続きを紹介する(今回は抜粋が難しく全部)。現代の「科学技術への、信仰に近い依存・寄りかかり」について考えさせてくれる。
 ただ、長くなるので2回に分ける。
 なお、各回のタイトルは紹介者が付けたもので、原文にはない。

 ・・・・
 多数のドイツ人は、彼らの故郷を失いました。彼等の村や町を離れねばなりませんでした、彼等は故郷の土地から追放された人達であります。故郷を失わずにすんだ他の無数の人達は、それにも不拘(かかわらず)、故郷を立ち退き、大都会の、歯車装置のような、激しい機械的繁忙の内に入り込み、工業地域の荒野の内に移住することを余儀なくされております。彼等は古き故郷から疎外されているのであります。
 それでは、故郷に留まっている人達は、どうでありましょうか。
 彼等は屡々(しばしば)、故郷から追放された人達よりも、もっと甚だしく故郷を失っているのであります。毎日毎時、彼等はラジオやテレヴィジョンに縛り着けられております。毎週、映画は彼等を、普通ではないが多くの場合つまらぬものにすぎないところの表象圏域(註)の中に拉れ去るのであり、その圏域は巧みに或る世界を見せかけますが、その世界は決して世界ではないのであります。何処へ行っても《写真入り週刊誌》はぶら下がっております。

   訳者註 表象:Vorstellung
         人間が物を「自分の前に且自分の方へと立てる」ということ、
         つまり「対象化する」ということ。
         適切な語がないので「表象」を当てた。

 現代の技術的な諸々の通信器具は毎時間毎時間、人間を刺激し、奇襲し、追い廻しているのでありますが、そのための材料とされているもののすべて、そういうもののすべての方が、今日では既に人間にとって、自分の屋敷の廻りの耕地よりも、一層身近かであり、地を覆う空よりも、昼と夜との時の歩みよりも、一層身近かであり、村の風俗習慣よりも、故郷の世界の伝えよりも、一層身近かであります。

 私共は一層思いを潜め、そして問います、すなわち、一体何がここに於て生じているのであるか――故郷から追放された人達の許(もと)でも、又それに劣らず、故郷に留まっている人達の許でも――と。
 答、現代人の「土着性」が最も内奥に於て脅かされているのであると。そればかりではなく更に、土着性の喪失は、単に何か外的な周囲の事情とか運命とかに依って惹き起こされているだけではなく、又人々の投げ遣りな態度とか表面的な生活の仕方に基づいているだけではないのであります。土着性の喪失は、その内に私共すべてが生み入れられた時代、その時代の精神に由来しているのであります。

 私共は更に一層思いを潜め、そして問います、すなわち、もしそのような有様であるならば、人間は、そして又人間が造る作品は、果たして今後なお、生のままの故郷の土地から生い立ち、そして天空の内に、すなわち天と精神との広闊(こうかつ)さの内に、聳り立つ(そそりたつ)ことが出来るであろうか。或いはまた、すべては、計画と計算、組織と自動作業の鉗子(かんし)の中に挟み込まれてしまうのであろうかと。

   紹介者註 鉗子:手術で使う鋏様の器具

 私共が今日の祝祭に際し、その祝祭が私共の身近かに齎す(もたらす)事柄に、省察を向けますならば、私共は次のことに注目するのであります。
 すなわちそれは、土着性の喪失が私共の時代を脅かしている、ということであります。
 そして私共は問います、私共の時代に於て本当に起っていることは一体何であろうか、私共の時代を特色づけていることは何であろうかと。

   紹介者註 この講演は、作曲家コンラーディン・クロイツァーの百年忌の
         記念「祝祭」において行われた。

 ひとは、今始まりつつある時代を近頃、原子時代と名づけております。この時代の否応なしに押し掛かって来る最も著しい目印は、原子爆弾であります。
 併し、この目印は単に、事態の前景に存する目立った一つの目印にすぎないのであります。何故ならば、原子力が平和的な諸目的のためにも利用されるということは最早認識されているからであります。そのために、今日原子物理学やその技術家は到る処で、原子力の平和的利用を遠大な諸計画にもとづいて実現しようとしているのであります。幾つかの指導的国家、その尖端(せんたん)にイギリスが立っているのでありますが、そういう指導的国家の大産業コンツェルンは、原子力が巨大な企業になり得ることを、既に計算してしまっているのであります。
 ひとは、原子企業のうちに新しい幸福を認めております。そして原子科学も、そういう掛声の外に離れてはいないで、この幸福を公然と告知しているのであります。そうでありますから、今年の六月、十八名のノーベル賞受賞者達が、マイナウの島(註)に集まり、声明文を発表し、その中で文字通り次のように声明したのであります、すなわち、《科学――というのは、ここでは現代の自然科学のことであるが――それは、人間を一層幸福なる生活へ導いてゆく一つの道である》と。

   訳者註 マイナウの島:スイス、ボーデン湖のなかにある島

 このような主張は、一体如何なる有様にあるのでしょうか。それは、省察から発した主張でありましょうか。それは抑々(そもそも)、原子時代ということの意味に思いを潜めて追思しているのでしょうか。
 否、決してそうではありませぬ。
 私共が、科学が発するこのような主張に依って満足してしまいますなら、私共は、現代と言う時代への省察から、この上もなく遠く隔てられているのであります。
 何故でしょうか。
 私共は気遣いつつ思いを潜めて追思することを忘れるからであります。次のように問うことを忘れるからであります、すなわちその問とは、科学的技術が自然の中に諸々の新しいエネルギーを発見することが出来、それらを開発することが出来たというこのことは、一体何に基づいているのか、という問であります。

 このことは、次のことに基づいているのであります、すなわちそれは、既にここ数世紀以来、基準となる諸表象のすべてに亙って或る一つの顚覆的(てんぷくてき)変動が進行中である、ということであります。その変動に依って人間が、今までとは別な或る一つの現実の内に移し置かれつつある、ということであります。
 世界の見方に関するこの根本的にして激烈なる革命は、近代の哲学の内に於て遂行されたのであります。そこから、世界の内に於けるそして又世界へ関わる、人間の従来とは全く異なった或る一つの立ち方が、生じて来たのであります。

 今や世界は、計算する思惟がそれに向ってさまざまな攻撃を開始するところの対象であるかの如くに、現れて来るのであり、それらの攻撃には最早、何物も抵抗し得るはずはないのであります。
 自然は、他に比類なき一つの巨大なガソリン・スタンドと化し、つまり現代の技術と工業とにエネルギーを供給する力源と化します。
 世界全体へ関わる人間の、根本的に技術的なるこの関わり合いは、最初十七世紀に於て、而も(しかも)ヨーロッパに於て、而もヨーロッパに於てのみ、成立したのであります。それは、その他の大陸に於ては長い間知られずにいた事柄であり、それ以前の時代と諸民族の運命とにとっては、全く無縁な事柄であったのであります。

 現代技術の内に覆蔵されている勢力、そういう勢力は、有るといえる事柄へ関わる人間の関わり合いを、規定しております。その勢力は地球全体を支配しております。人間は既に、地球を離れて宇宙の中へ突進することを、始めております。併し原子力が極めて巨大な力源であり、近い将来あらゆる種類のエネルギーに対する世界の需要を永久に満たし得る程の力源であるということが、知られるに至ったのは、漸くここ二十年前からのことであります。この新しいエネルギーを直接に調達することはやがて、石炭や石油の産出や森から取って来られる薪とは違って、最早一定の国土や一定の大陸に限られなくなるでありましょう。近い将来に地球上のどの箇所にも原子力発電所が建設されるに至るでありましょう。

 現代の科学と技術との根本の間は最早、次のような問、すなわち、我々は、必要に足りるだけの燃料や動力源を、何処から獲得して来るかという問、ではありませぬ。決定的な問は今や次のような問であります。
 すなわち、我々は、この考える(表象する)ことが出来ない程大きな原子力を、一体如何なる仕方で制御し、操縦し、かくしてこの途方もないエネルギーが突如として――戦争行為に依らなくても――何処かある箇所で檻を破って脱出し、いわば《出奔》し一切を壊滅に陥し入れるという危険に対して、人類を安全にして置くことが出来るか、という問であります。

 原子力の制御が成功しますならば、そしてそれは成功するでしょうが、その時、技術的世界の従来とは異なった全く新しい発展が始まるでしょう。今日、映画やテレヴィジョンの技術とか、交通の技術就中航空の技術とか、通信の技術とか、医学上の技術とか、食料に関する技術とかいう風に私共に知られている事柄は、恐らく、この新しい発展の粗削りな初発段階を、現示しているにすぎないでありましょう。来りつつある諸々の顚覆的変動は、誰も知ることが出来ませぬ。

 とはいえ、技術の発展は益々急速に経過するでしょうし、如何なる処に於ても引き停められ得ないでありましょう。現有のすべての境域に於て、人間は、諸々の技術的装置や自動機械の及ぼす諸力に依って、益々狭く息苦しく、取り囲まれて来ます。何等かの形での技術的な施設や設備を通じて、到る処に於て、時々刻々、人間を占有せんと要求し、人間を繋縛し、引ずり去り、圧迫しているところの諸々の勢力、これらの勢力は既にずっと以前から、人間の意志や決断力を超えて、増大してしまっているのであります。それは、それらの勢力が人間に依って作られた作りものではない、からであります。

 併しまた、技術的な世界に於ける、従来見られなかった、新しい事柄の一つとして、次のようなことがあります、すなわちそれは、その世界の内で為された諸々の仕事や業績は最も急速な仕方で知れ渡り一般のひとの目を見張らせる、ということであります。
 そうでありますから、この講演が技術的な世界について言及している事柄に致しましても、今日では誰でもそれを、巧みに編集された写真入週刊誌の中で、而も如何なる週刊誌の中ででも、後から読むことが出来ますし、或いは又、ラジオで聴くことも出来るのであります。

 併し、私共が或る事柄を聴いたり、読んだりしたということ、すなわち、その事柄を単に知ったということと、私共が聴いたり読んだりした事柄を、認識したということ、すなわち、その事柄を熟思したということとは、全く別なことであります。

 今年すなわち一九五五年の夏、リンダウでは再び、ノーベル賞受賞者達の国際的会合が催されました。その折、アメリカの化学者スタンレーは、次のように言いました、すなわち《生命が化学者の手中に置かれる時は、近いのであり、化学者は生命ある物質を随意に減成したり、増成したり、変更したりするのである》と。

   訳者註 リンダウ:ボーデン湖畔の町

 ひとは、かくの如き重大な発表を知ります。ひとは更に科学的探究の大胆さに驚きの目を見張りますが、その際何も考えませぬ。ひとは次のことを些かも(いささかも)熟思しないのであります。
 すなわちそのこととは、ここでは技術を手段として人間の生命と本質に向って或る攻撃が準備されているのであり、その攻撃に比べれば、水素爆弾の爆発などは殆ど物の数ではない、ということであります。何故ならば、水素爆弾が「爆発することなく」、人間の生命が地上に維持される時、まさにその時こそ原子時代とともに世界の或る不気味な変動が立ち現れて来るからであります。

 併し乍ら、本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になる、ということではありませぬ。
 それより遥かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも容易を整えていない、ということであり、私共が、省察し思惟しつつ、この時代に於て本当に台頭して来ている事態と、その事態に適わしい仕方で対決するに至るということを、未だに能くなし得ていない、ということであります。

 如何なる個人も、如何なる人間の集団も、極めて有力な政治家達や研究者達や技術家達をメンバーとせる如何なる委員会も、経済界や工業界の指導的人物達の如何なる会議も、原子時代の歴史的進行にブレーキをかけたり、その進行を意のままに繰ったりすることは、出来ないのであります。単に人間的であるにすぎない組織は、如何なる組織でも、時代に対する(「技術」の)支配を簒奪(さんだつ)することは出来ないのであります。

   紹介者註 簒奪:(帝王の位を臣下が)奪い取ること

    [以下、次回へ]

          ハイデッガー選集ⅩⅤ「放下」辻村公一訳(理想社)より

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