基準依存症候群・・・・指針、規定、そして基準

2007-09-03 18:55:10 | 設計法
 「美しい国」などという語が、ときおりメディアのあたりを賑わす。
 しかし、少なくともハードな面で言えば、日本は、特に都会は、「美しい」どころか「醜い」姿に変貌した。
 時の政府は「美しい国」を目指すと称して「教育基本法」を改変した。しかし、本当に改訂すべきは「建築基準法」だったのではないか。

 なぜなら、国土を「醜く」してしまった決定的原因は、建築基準法にあるからだ。更に言えば、それと連動した資産税制:地価高騰促進政策にある。
 良かれ、と勘違いして容積率、建蔽率、そして日影規制・・を法律で定める。それをもって「基準」とする。するとどうなるか。法律が規定枠目いっぱい建ててよい、と保証したと考える(もちろん、そう考える建築関係者、不動産関係者が多いからだが)。
 だからたとえば、斜線制限がそのまま建物の外形となる。数字が、あたかも推奨値かのように扱われる。排水の汚染程度の「許容値」と同じである。0にするべく努めず、その数値なら良いと勘違いする。「景観法」で、「美しく」なるはずがない。

 こんな事態は、江戸時代までには考えられなかった。

 近世の町は「美しかった」。それは各地の「伝建地区」の「街並み」を見れば分る。その時代、「取締り」や「基準」はあったろうか?
 そんなものはない。人々は、それぞれの考えで建物をつくった。だからこそ、「美しかった」のである。
 今の世は、とかく「規制」「規定」「基準」・・を設けなければ、ものごとはよくならない、と思い込む。本当だろうか。そんなに人々は自分で「判断」ができなくなっているのだろうか。そんなに人々は愚かか?

 これは、ある地位の人たち、つまり選ばれたと思い込んだ人たち、簡単に言えばエリートだけが物事を正当に判断できるのだ、というどうしようもない「誤解」によって生まれたきわめて「現代的な病」と言ってよいだろう。そしてそれが、明治の「近代化推進」策から始まったことは大分前に書いた。


 ところで、眞島健三郎氏の論説紹介の際にも触れたが、「中越沖地震」後、「耐震補強」を奨める声が小さくなったような気がする。
 構造設計者も、「これで大丈夫だね?」と訊かれて、はっきり返事をしなくなったらしい。もちろん、かくかくしかじかの耐震補強をした方がよい・・などとも大きな声で言わなくなったようだ。
 なぜなら、今までならそれに頼っていた「指針」の信用性がなくなり、万一地震に遭って壊れたら、奨めた自分にモロにはねかえるのは目に見えている。多くの《専門家》がビビっているらしい。
 それにしても、多くの損壊例の原因となった「規定」「指針」「基準」・・・の責を問う声がまったくないのは何故?

 逆に言えば、こうした事態が続けば、世のなかは「正常に」戻る。
 頼るべきは自らの判断にある。どのように、地震と向かい合うのがよいか、建物をつくる依頼者も、そして設計者も、自分で考えるようになる。
 そして、その結果をだした自らが問われる。これが、本当の自己責任というものだろう。
 第一、大きな顔して「審査」「検査」「指導」・・をしていた(しかし責任は絶対にとらない)お役人様も要らなくなる。公務員の人員削減もできるではないか!
 そして、確実に全体の(建築関係者、建物、街並み・・の)「質」が向上する。

 実は、これが近世までのあたりまえの姿。専門家はこうして専門家:プロになった。すでに「日本の建築技術の展開」で触れたように、技術も停滞せず、発展を続けた。

  
コメント (4)
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