私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

プリーモ・レーヴィとトゥーリオ・レッジェの対話

2024-08-27 11:06:12 | 日記
 プリーモ・レーヴィ(1919-1987)は多くの人がご存知でしょう。トゥーリオ・レッジェ(1931ー2014)は物理学者の間ではレッジェ・ポール理論で知られるイタリアの優れた理論物理学者でした。この二人の対話(DIALOGO)の英語版が1989年に出版されました。この本のイタリア原語版は1984年にミラノで出版されています。イタリア在住の親しい人がこの本を私に送ってくれました。総頁80ページ程の小冊子ですが読み応え十分です。
 A cut above という妙な表現があります。「一枚うわて」といったような意味ですが、私には食べる肉の切り方に語源があるように思えたので当たってみましたが駄目でした。物書きとしてはプリーモ・レーヴィと私では全く格が違います。しかし、自然科学者として、物事についての知識が曖昧さなく得られる場合があるということを信ずる点において、プリーモ・レーヴィと私は同じような所に立っていたのだと思います。イスラエルのユダヤ人が先住民のパレスティナ人にしていることをはっきりと見据えたプリーモ・レーヴィは黙ってはいられませんでした。
 対話(DIALOGO)英語版は12頁の長い序論で始まります。それには、プリーモ・レーヴィが昔からの自宅のあった集合住宅の4階の階段の手すりを乗り越えて飛び降り自殺を果した(1987年4月11日)というニュースを、長距離の自動車旅行から戻ってきたトゥーリオ・レッジェが娘さんから告げられて驚き悲しむ文章が含まれています。この自殺事件については、以前、私のブログ記事に書いたことがあります:(https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/d/20230217)。 プリーモ・レーヴィ著竹山博英訳の『これが人間か』(朝日新聞出版)に自殺について次のような解説がなされていますが、プリーモ・レーヴィについて本格的に研究をなさっている竹山博英さんに敢えて以下のような異論を唱えました:

竹山氏の解説(310頁)には
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彼は1987年に自死を遂げた。重度の鬱病にかかっていたためだとされている。その鬱病の原因としては多くのことが指摘されている。自分の母の看病以外に、妻の母の面倒も見ていて、疲れ切っていたこと、前立腺の手術の予後が思わしくなく、それを悲観していたことなどである。だがこうしたことと並んで、「アウシュヴィッツの毒」が彼の鬱病を悪化させた可能性は否定できないと思う。
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とあります。しかし、私は意見を異にします。プリーモ・レーヴィは実に心の優しい人でした。イスラエルの住民と政府が、原住民として長年住んでいたパレスティナ人達に迫害を加え、その土地から追い出そうとするのをプリーモ・レーヴィは黙視できず、反対の声を上げました。そのためユダヤ人として裏切り者呼ばわりをされてしまいます。これは極限状態下の人間の変貌崩壊(Se questo è un uomo)に立ち会うことではなく、『これが人間か』という直截なストレートな絶望に突き落とされることであったに違いありません。この絶望の故にプリーモ・レーヴィは自らの命を絶ったのだと私は思います。ユダヤ人、ロマ人、心身障害者問題に対する最終的解決策を遂行しようとしたナチスドイツの政治家、思想家、官僚たちは極限状態下にあったわけではありません。言ってみれば、普通の状態の人間たちでした。“banality of evil”です。その悪は今も健在です。(私のブログからの引用終り)

 プリーモ・レーヴィとトゥーリオ・レッジェの対話(DIALOGO)に話を戻しましょう。1979年に米国で『ゲーデル、エッシャー、バッハ、あるいは不思議の環』(著者ダグラス・ホフスタッター)という総頁777の本が出版されました。世界的に大評判となり、カナダ移住直後の私も購入して読んでみましたが、よく理解出来ませんでした。この本の中心をなす有名な『ゲーデルの不完全性定理』なるものが私にはよくわからないので、これは当然です。対話(DIALOGO)の中でレッジェはゲーデルの仕事について論じていますが、レーヴィはおそらく私と同じようにあまりよくわからなかったのだろうと思います。対話の中で、彼の理解するゲーデルを次のように論じています:「ゲーデルは数学の基礎を破壊してしまったとして、ゲーデルを非難する人たちに対して、ゲーデルは、 いやそうではない、人間の直感(INTUITION)というものの価値を復権させたのだ、と答えた」こと、そして、続いて、「直感といえば、科学的文化でないあらゆるもの ―― つまり、芸術、文学、音楽 ―― は君にどういう影響を与えてきたか?」と友人のレッジェに問いかけます。それに答えるレッジェは、セバスティアン・バッハに対する異常なほどの傾倒を告白します。「もし、もう一度生まれ変わることができたら、私は音楽家になるだろう」とさえ言います。レッジェのバッハに対する愛情は、ホフスタッターのそれとは異なり、直裁純粋なものであったようです。
 
プリーモ・レーヴィと私の大きな違いは、私が、人間に対する希望を捨てていない所にあると思います。私は人間に絶望した心情を抱いて死にたくはありません。私の大好きな映画に山田洋次監督の『母と暮らせば』があります。その中に、原爆被爆者の墓参りに来た老人が、原爆投下を「人間のする事じゃなか」と呟く場面があったと思います。英語でも、inhuman とか、humaneなどの言葉が無意識によく使われます。そうです。今の、目も当てられない無惨な状況は人間の元々あるべき状態ではないのです。ガザの無辜の人間達を「human animals」と呼んで殺しまくるようなことは「人間のする事」ではありません。あってはなりません。

藤永茂(2024年8月27日)

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1 コメント

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ログイン不可能に (藤永茂)
2024-09-09 20:14:04
九月九日、私のこのブログにログインして記事をアップすることができなくなりました。記録のため、ここに書き込んでおくことにしました。藤永茂
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