私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

カエサルはレオポルドではなかった

2006-07-19 03:50:58 | 日記・エッセイ・コラム
 「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ-ついこの間のことのようにね」(藤永19)と、マーロウは物語を始めます。ローマ人がブリテン島南部に攻め込んで来た時には、彼らはイギリス人とは違って「植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何物でもなかった。彼らは征服者だったのであり、そのためには、ただ、がむしゃらな力があればよかったのだ。・・・とにかく獲物をせしめれば、というわけで、手に入る獲物は何かまわず、強奪したのだ。それは力まかせの強盗であり、大規模の凶悪な殺戮だ。しかも彼らは盲滅法にそれをやった。?それこそが暗黒と格闘する連中にふさわしい行動だからな。」(藤永21-22)とマーロウは語ります。古代ブリテン島の歴史に無知だった私は、ここを初めて読んだ時には、ローマのブリテン島征服がこんな風だったのだろうと思って読み進みましたが、カエサル(ジュリアス・シーザー)のガリア戦記などによると、大分話が違うようです。
 紀元前55年カエサルは一万の歩兵を今のケント地方に上陸させますが、辺りに住んでいたケルト族(ブリトン人)はゲリラ戦を展開して頑強果敢に抵抗し、ローマ軍は2週間後には撤退します。翌年紀元前54年にカエサルは3万の歩兵騎兵を率いて再びケントに攻め入り、キャンタベリー辺りで決定的な勝利を収めた後、テムズ河南岸沿いに西進して今のロンドン辺りでテムズ河を渡り、北進しました。カエサルはそのまま3ヶ月ほどブリテン島に滞在して、当時のブリトン人たちの生活を観察し、人口は密で、しっかりした家屋に住み、沢山の家畜を飼っていることや金のコインを通貨に使っている事などを、書き記しています。紀元1世紀から5世紀始めまでこの地はローマの植民地となり、ロンドンは都市としての成長を始めます。アングロ・サクソン族がここに攻め入ってくるのはローマ人が去ったあとのことでした。
 まとめて言えば、征服された“蛮族”の様子も、その後の植民地経営にしても、ローマ植民地ブリタニアとレオポルドのコンゴ植民地とでは大変な違いがあったようです。ですから、問題はむしろ、「コンラッドが、ローマのイングランド征服を凶悪非道なレオポルドのコンゴ征服に、何故、強引になぞらえたか?」ということにあります。『闇の奥』のナラティブの構造として、このマーロウの出だしは重要なわけですから、この点、コンラッド専門の諸賢のご教示を頂きたいものです。

藤永 茂  (2006年7月19日)



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