私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

オタ・ベンガのこと

2006-08-16 12:02:35 | 日記・エッセイ・コラム
 1906年9月、ニューヨークのブロンクス動物園でコンゴのピグミー族の黒人男性がオランウータンと一緒に檻に入れられて見世物になりました。オタ・ベンガはその黒人の名前で、最近、ニューヨークタイムズの記事になって、アメリカの古い記憶が一つよみがえりました。
 私はオタ・ベンガの事をホックシールドの『レオポルド王の亡霊』(1998年)で知りました。私が訳した『闇の奥』の「訳者あとがき」に書きましたが、私はこの本をフィンケルシュタインの『ホロコースト産業』(2000年出版、邦訳2004年出版、三交社)で知ったのです。まだ邦訳がないのは残念です。ノートン社の『闇の奥』第4版にはその一部が転載されています。本書が私の『闇の奥』再読のきっかけとなった理由は、その序文が良く代弁してくれるので、その一頁を訳出します。
「数年前、たまたま読んでいた本の一つの脚注に目を止めるまで、私はコンゴの歴史についてほとんど何も知らなかった。何かひどく驚かされるような文章に出会うと、それを何処で読んだかをよく憶えていることがあるものだ。この場合は、夜遅くアメリカを東から西へと横断して飛んでいる旅客機の最後部の座席に、身動きもままならず、疲労して座っていた時だった。
 その脚注はマーク・トウェインからの引用で、五百万から八百万の人命を奪ったコンゴでの奴隷労働制に反対する世界的運動に彼が参加していた頃に書かれた文章だとしてあった。世界的運動?五百万から八百万の人命?私はすっかり驚いてしまった。
 大量殺人の統計的数字を確証するのはむつかしいことがしばしばある。しかし、私は考えた。実際の数字がこの半分になったとしても、コンゴは近、現代での大殺戮の舞台の一つであったわけだ。これらの死がわれわれの世紀の恐るべき惨事の数々を唱え上げる連祷の中に出て来ないのは何故なのか?それどころか、これまで私が一度も聞いたことが無かったのは何故なのか?私はこれまで多年にわたって人権問題について書いてきたし、しかも、六回ほどのアフリカの旅の間に、一度はコンゴを訪ねたこともあったのだ。
 訪ねたのは1961年のことだった。レオポルドビルのアパートで、私は一人のCIAの男から話を聞いた。その男は酒の呑み過ぎの常習者だったが、この新しく独立した国の初代の首相パトリス・ルムンバが、数ヶ月前に、何処で、どのようにして殺されたか、その正確なところを、さも満足げに話してくれた。アメリカ合衆国政府が危険な左翼分子の厄介者と考える一人の男が殺されたことで一安心したという彼の気持を、アメリカ人ならば誰でも、それが私のような通りがかりの一人の学生にしても、きっと共有するものと、彼は思い込んでいた。それから一、二日後、朝早く、私はコンゴ河を渡るフェリーでその国を離れた。陽が河面の波の上に昇り、深い色の滑らかな河の水が船体を打っていたが、私の頭の中では彼との会話が鳴り続いていた。
 それから幾十年か後になって、私はあの脚注と出会い、それとともに、コンゴの以前の歴史についての私の無知を思い知らされた。その時,気がついたのだが、他の何百万かの人々と同様、その時代とその場所について、実は、前に私も読んだことがあったのだ。つまり、ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』を読んでいたのだ。しかしながら、その折の大学の講義ノートは、フロイド風の意味合いとか、神秘的なこだまとか、内面的なヴィジョンとか、そんな事についての走り書きで一杯になっていて、そのノートと一緒に、私は、あの本を、事実ではなく、フィクションとして心理的に片付け、忘れ去ってしまっていたのだった。」
 オタ・ベンガ事件のことは、このホクスチャイルドの本の176頁の脚注にでていますが、詳しい事情は1992年に出版された『OTA The Pygmy in the Zoo』(By Phillips Verner Bradford & Harvey Blume)で知ることが出来ます。オタ・ベンガは、コンゴに入り込んでいたサミュエル・ヴァーナーという牧師兼人類学者兼商売人のアメリカ人が1904年のセントルイス世界大博覧会に連れてきました。そこには「人類館」とでも呼ぶべきパビリオンがあって、エスキモー、アメリカ・インディアン、フィリピン原住民などと一緒にコンゴのピグミー族オタ・ベンガも‘人類学的’展示物となったのでした。博覧会の後、オタ・ベンガはヴァーナーと一緒にコンゴに帰ったのですが、1906年、アメリカに帰国するヴァーナーについてニューヨークにやってきて、出来て間もないブロンクス動物園のアトラクションになったのでした。オタ・ベンガの檻には、オランウータンのほかに動物の骨などを散らかして、オタが食べたものであるように見せかけてあったといいます。展示の初日は1906年9月8日、その翌日には数千人、9月16日の日曜日には4万人が押しかけたと記録されています。やがて、黒人のキリスト教牧師たちの抗議でオタ・ベンガは動物園から他所に移されましたが、1916年3月自殺して果てました。自殺の正確な理由は不明です。
 『オタ 動物園のピグミー』の著者の一人フィリップ・ヴァーナー・ブラットフォードはサミュエル・ヴァーナーの曾孫にあたります。この書物は興味ある事実や写真で一杯です。例えば、コンラッドの『闇の奥』に出て来る“filed teeth”(やすりをかけた歯)の実例の写真もあります。しかし、この本が私を強く刺激するのは、それがアメリカという國の一つの醜い 断面を生々しく露呈しているからです。『闇の奥』とも密接に連関しています。それについては日を改めて論じたいと思います。
 今日は、この1906年のオタ・ベンガ事件に直接つながる日本史上の大きな汚点を想起したいと思います。1903年(セントルイス世界博の一年前!)、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会に「学術人類館」という名のパビリオンが出来て、そこには琉球人、アイヌ人、台湾の先住民、朝鮮人など、生き身の人間が展示陳列されました。これが「人類館事件」と呼ばれる事件です。明治の日本がヨーロッパの悪業を学び取った速度には全く驚くべきものがあったようです。根本的な反省が必要です。
 ヨーロッパにはこの「人類館」的悪業の長く古い歴史があります。1880年の秋、カナダのラブラドールから8人のエスキモー(イヌイット)がドイツのハンブルグの有名なハーゲンベック動物園の持ち主カール・ハーゲンベックの許に届けられ、丁度珍しい動物を連れて回るように、見世物として、ヨーロッパ中を引き回され、1881年の1月までに、8人ともヨーロッパで疱瘡にかかって死んでしまいました。この経緯についての本が最近カナダのオタワ大学から出版されて、私は初めてこの悲劇を知りました。

藤永 茂  (2006年8月16日)



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