私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ラルフ・モードのマーロウ批判

2006-07-26 08:54:14 | 日記・エッセイ・コラム
 1972年、私が初めて読んだ『闇の奥』は英文学コースのテキストとしてアルバータ大学のブックストアに山積みになっていたRobert Kimbrough編集の『Heart of Darkness』(第2版、1971年、ノートン社)です。第1版は1963年、第3版も同じくKimbrough編集で1988年、第4版は編集者がPaul B. Armstrongに代わって2006年出版。総頁数は276頁(第2版)、420頁(第3版)、514頁(第4版)、コンラッドのテキスト本文はどの版でも70頁そこそこですから、付録的な部分の肥大傾向には目を見張るものがあります。この「ノートン・クリティカル・エディション」という英文テキストのシリーズには90冊近い古典が含まれていて、全部を調べたわけではありませんが、第4版まで出版されて、しかも版を新しくする度に大幅に肥大して行ったのは『闇の奥』だけだろうと思われます。付録部分の内容的変化も実に興味深く、それを比較検討するだけで卒論の一つや二つは出来てしまうかも知れません。
 今日は、第2版に含まれているのに、第3版、第4版では惜しくも姿を消してしまったRalph Maudという人の「The Plain Tale of Heart of Darkness」という異色の論考を取り上げます。分かりにくく透明性を欠く事で名高い『闇の奥』をあえて「平明な話」と呼ぶ所からして、その天の邪鬼性に惹かれるではありませんか。 
 コンラッド研究の大御所Ian Wattの『Essays on Conrad』(2000年)の第4章は、コンラッドをレイシスト呼ばわりした1975年のアチェベの非難に対して、『闇の奥』とコンラッドを熱心に弁護する内容になっています。それによると、1975年以前は『闇の奥』は、その第1部はともかく、全体としては反帝国主義的であるとは受け取られず、ベルギーの植民地コンゴでの残虐行為を問題にしたものだと一般に了解されていたことになっています。たしかに、1975年のアチェベの発言は『闇の奥』論の大きな転回点となったことは事実ですが、その批評の歴史をよく辿ると、アチェベより10年ほど前の1960年代に、すでに、コンラッドの『闇の奥』に対する攻撃と、その攻撃に対する防衛が始まっていたことがわかります。これについては、以前のブログ記事「エロイーズ・ヘイのコンラッド弁護論」である程度論じましたが、今日紹介するモードの『闇の奥』批判-とりわけマーロウに浴びせられた痛烈な皮肉は、1960年代という魔の年代の真中で発せられた鋭い『闇の奥』批判として一読に値します。出典は“Humanities Association Bulletin, XVII (Autumn, 1966), 13-17”となっています。
 クルツは「蛮習廃止国際協会」のために格調高い報告書を書き上げますが、その最後の頁に「蛮人どもを皆殺しせよ!(Exterminate all the brutes!)」(藤永133)という一行を、おそらくずっと後になって、書き加えます。この苦く激しい嘲りの言葉は、コンゴの奥で自分の任務の本質が「蛮習廃止国際協会」という美名を冠した虐殺システムの片棒を担ぐことだとクルツが悟った時に発した言葉であり、こうして、クルツは「蛮習廃止国際協会」に最もふさわしいスローガンを与えたのだ、というのがモードの解釈です。
 クルツの発した最も有名な言葉“The horror! The horror!”についてのモードの解釈も明快です。彼はクルツをアイヒマンと並べて考えます。ヨーロッパで立ち上げられた恐怖の虐殺システムの手先として、この二人は同じ平面に立っています。「違いは、アイヒマンは最後まで<恐怖!恐怖!>とは言わなかったが、クルツはこの言葉を発して、自分自身と自分と同じようなすべての人間たちを断罪した所にある」とモードは言い切ります。「The horror is the whole dark system of imperialist exploitation masquerading as the spread of enlightenment.」
さて、そうだとすると、ブリュッセルに帰ってからのマーロウの行動が実に怪しからぬことになってしまいます。少し長くなりますが、原文に接しにくい方々のために、Maudの論考の最後の一節をそっくり書き写します。
「What perversity, then, for Marlow on his return to Brussels ? the real heart of darkness ? to say to the Company official that “Mr. Kurtz’s knowledge, however extensive, did not bear upon the problems of commerce or administration.” Is this guileless, or deliberately misleading? We wonder what Marlow has learned from “the journey of his soul” along one artery of darkness. He might at least have learned Kurtz’s scorn of hypocrisy and rendered him justice on that score. But does he know what it would mean to render Kurtz justice? It would mean lancing the rotten system at its heart, bursting the sanctum, “the door of Darkness” guarded by the two fates knitting black wool, and transfixing “the pale plumpness in a frockcoat” with a tusk. Not that that would do much good; but Marlow doesn’t even do the little bit of good that is very possible for him. If he had just told Kurtz’s fiancée the truth in such a way that she had to believe him, she might, after some hysterics, have grown up into a healthy, useful woman, a member of the International society for the Suppression of “Civilized” Customs. Instead, in a funk, in a feint of second-rate chivalry, he effectively seals her in darkness for ever.」
ブルッセルに戻ったマーロウは会社の社長室に殴り込みをかけて、悪の権化である太っちょの社長を象牙で刺し殺し、クルツの婚約者には彼の憤死の真相を伝えて、彼女の蒙を開くべきであったというのですから、これはひどく辛口のマーロウ評です。この最後の一節を読みながら、私は小説『マショナランドの騎兵ピーター・ハルケット』を書いた白人女性作家オリーブ・シュライナーのことを思い出しました。1897年にロンドンで出版されたこの小説の中で、シュライナーは、その頃南アフリカを蹂躙しつつあったセシル・ローズの“システム”を、勇気を持って、公然と非難したのです。『闇の奥』執筆直前のコンラッドが、すでに筆名を確立していた白人女性作家オリーブ・シュライナーの小説を読んだ可能性は十分あります。モードが言うように、もしマーロウに事の真相をクルツの婚約者に話すだけの勇気があれば、もう一人のオリーブ・シュライナーが生まれたかも知れません。モードさんの皮肉いっぱいのユーモアの陰に、彼の怒りが感じられます。
 インターネットでRalph Maudさんのことを調べてみたら、面白いことが分かりました。カナダはバンクーバーのサイモン・フレイザー大学英文学部の教授、ディラン・トーマスの指導的研究者の一人で、またカナダの太平洋北西海岸の原住民ハイダにも長い間関心を持ち続けているとのこと。バンクーバー空港の建物の中の至る所にみられる木彫彫刻はハイダの人たちの芸術作品です。イギリス人がこの辺りを植民地化する前には、ハイダの社会には「ポットラッチ」という将にラブレー的な愉快な行事があり、突拍子もない形で富の再分配が行われていたのですが、イギリス人たちは「ポットラッチ」が原住民たちに勤勉貯蓄の精神を学ばせる邪魔になるとして、強引に禁止してしまいました。モードさんは、こうしたイギリス人たちの横暴を思いながら、このユニークな論考を書いたのかも知れません。ちなみに、クロード・レヴィ=ストロースもカナダ西海岸の原住民が創造した木彫仮面に魅了されて名著『仮面の道(Voie des masques, The way of masks)』を書きました。

藤永 茂  (2006年7月26日)



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