本には表情がある

 新潮社から、毎月『波』が届く。パラパラとめくり目に付いた記事を拾い読みする。ひと月かけて結局は全部読んでしまうこともあるし、ホンの数ページしか読まないこともある。

そんな『波』7月号に気になる記事があった。『波』は勿論、新潮社の新刊本のPRを目的と した月刊誌である。売りたい本のPR記事が掲載される。とは云っても、いつもいつも郷秋<Gauche>の食指を動かす本の紹介記事が掲載されているわけではない。と云うより、偏屈な郷秋<Gauche>の興味をそそる本は、少ない。

 そんなかなで目に留まったのが今日のタイトルにもした「本には表情がある」と云うわずか1頁の記事である。編集者である柴田光滋氏が自著『編集者の仕事 本の魂は細部に宿る』についた書いた小文であるが、特に郷秋<Gauche>の気を惹いた箇所を以下に引用する。

「本とはモノなのである。モノである以上、機能に優れ、美しくなければならない」
 本だけではない、「モノ」全てについて云い切った、簡潔にして名言である。

「私は明るそうな未来より、確かなる過去を大事にしたい。温故知新と呼べるほどではないにしても、あえて古きに徹したいのである。」(下線は筆者)
 「明るそうに」見えてはいるが、未来が確かに明るく良きものであるのかどうかはわからない。確実なのは実績ある過去のみである。然り。

 しかし、柴田氏もiPadの存在については、「今年は電子書籍元年などと言われ、iPadの登場は華々しく報じられている。ここでその議論に立ち入るつもりはないが、」と、無関心ではいられないのである。急ぎ書くだけのゆとりはないが、いずれ書かねばなるまいと云わんばかりではある。現状ではiPadの存在を認めたくない柴田氏は「一つだけ言っておきたい。モノとして本ではない電子書籍に表情というものがあるのだろうか。」と云う。然り。

 iPadの登場以来、書籍は常に「データ」として語られている。データならばその表現(再生 or 再現)方法の違いによって価値が変わることはないだろうと云うスタンス一辺倒で語られているが、この議論の立ち位置を「情報としての本」から「モノとしての本」に移せば、まったく違った展開になることは確かである。

 実物を読んでもいないのに書評めいたことを書いてしまった。さっそく明朝、注文して読んでみなければならないな。


 例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、真夏の花、臭木(くさぎ)の花。気の毒な名前は葉を千切ると悪臭がすることからの命名だが、その花は凛として美しい。
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