「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

田屋

2006-12-10 23:34:57 | 歴史
  「田屋の大杉」
 曲り家の千葉家の南側下方、山谷川向かい。綾織町山口の山際にこの大木はある。遠野市指定天然記念物。熊野神社の境内にあり、目通幹回り約7.1m(大人が手を伸ばして5人ぶん)樹高約30m、樹齢約1500年。所有者宇夫方家所蔵文書によると、神武紀元1138年、雄略天皇22年9月16日弟館より移し植えられた。また、この老杉を昔切ろうとしたところ、木から血が流れたとか、オシラサマがコブに埋まっているという伝説がある。

 「宇夫方」
 田屋は宇夫方家の屋号である。宇夫方氏は阿曾沼氏の代官として文治5年に来て200年間に渡り実質的に遠野を統治した。一族を主要な地域に配置するとともに、婚姻関係により強固な力を保つ。阿曾沼氏が遠野にやってきた後は、紆余曲折があるも、一族は南部氏に仕える。

 「田屋」
 この田屋とは、どういう意味をもつのだろう。上綾織、平倉、中沢にも地名として残る。広辞苑では、田の番をするための小屋。出作りの期間中、居住用に建てた小屋。(万葉集にも出てくる)青笹町中沢の田屋を屋号とする工藤家は、観音沢の上の方に田屋館という場所があり、この沢の湿地を開田した城の娘が分家となったのがこの家の始まりという。この分家の初代は寛政4年(1792)に亡くなっておいり、現在で11代目になる。本家は南部氏入部以前からの家ではないかという。
 また、南部氏入部当初、阿曾沼の旧臣は立ち退きを求められたが、田屋持ちの老人や、病気の人は次男などと共に田屋で暮らしたといわれる。この時の田屋暮らしをしていた人達が後に田屋を屋号としたのであろうか? 
 田屋の工藤家の他に別の工藤家では、最初分家になった土地が慶仙という場所だという。屋号でもうひとつ、「石倉」。青笹町の菊池家の屋号、遠野町の地名のひとつ、そして、先日の戸草の屋号も。