「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

八戸頼母

2006-12-14 23:29:21 | 歴史
 今日、仕事にて八幡平市平舘まで行き、帰りに市立図書館に立ち寄った。平舘は藩政時代に一時、遠野の飛地となっていた所である。昭和一桁世代の元公務員夫婦のお宅にお邪魔しその話をしたが、地元では知られていない様子。地元郷土史家の何かしらの文献がないか探すも、それらしきもの無し。旧西根町史にて、若干、ふれているのみ。

 九戸政実の乱に加担した平舘氏の旧領平舘村は、南部27代利直の元和4年(1618)11月23日八戸南部に与えられた。(もともと、南北朝期からここは八戸南部の所領だった)八戸南部の遠野移封後、一族の間でたらい回しされ、後に盛岡本藩に移される。八戸南部(遠野南部)所領の間、一族の新田弥市郎義実が知行するが、寛永9年(1642)12月15日卒去す。男子がなく、女子3人だけだったことから、世継騒動になり、正保3年(1646)7月1500石の知行と家臣の大半が本家遠野に移された。未亡人は500石を給され、養子を迎え家名存続する。そして延宝4年(1676)遠野南部から八戸頼母(弥六郎直栄の子18歳)が分家するに際し、2000石を与え盛岡本藩の直参とした。この頼母25歳にて、その子も3歳にて早世し、知行半分になるも養子を迎え、後を継ぐ。3歳の子の時まで、平舘は遠野と縁続きの土地であった。(平舘は南部師行以降代々八戸南部→三戸南部→八戸弥六郎直栄→新田弥市郎義実→八戸頼母義也→八戸竹之助→八戸弥六郎義長→盛岡本藩と移る。)どうにも読み取りにくい文章構成だが、置いていかれた平舘側から見ると、はるか以前の遠野南部の記述としては仕方なしか。

 この八戸頼母が、遠野でいうところの附馬牛八戸氏。この附馬牛八戸氏の遠野での根拠地が現在の附馬牛小中学校周辺らしい。

 画像はその学校の北側猿ヶ石川向かいの地域。祖師堂の北側に手を入れていない社が杉木立の中に3軒並んでいる。あまりにも荒れていて何を祀ったものか不明。附馬牛町上柳の住宅地の中にありながら、これは何ということだろう。遠野郷に数ある社の中で人里にありながら、このような状態のものは見たことがない。柳田国男が「遠野は路傍の石塔の多きこと諸国その比を知らず。」と記したが、「社の多きこと甚だし」と思われる遠野郷においても、人々の信仰から離れたものは無残である。興すは易く、続けるは・・・。まるで、ブログと同じである。(文章中、南部氏関連についてはあまり自信がないのでお気づきの点がありましたら訂正をお願いします)
 明日は義実の命日にあたる。合掌。