小友町47地割字小黒沢にある伊豆権現。小友町勝跡志増補版には次のように記されている。
創建は不明。伊豆走湯山関係の修験者がもたらしたものと言われる。(来内、駒木の伊豆権現と流れは一緒と思われる。)享保8年(1723)、寛政12年(1800)、安政5年(1858)に再興。棟札等によると歴代にわたり別当は平兵衛であり、別当小松家の屋号となっている。境内には市指定天然記念物イヌザクラと小黒号馬魂碑(大正元年刻建)がある。
小黒号秘話として、文治5年(1189)源義経が衣川で没落の際、小黒号を放すと生れ里の小黒沢に帰ってきた。年老いて死んだ亡骸を当地に埋葬し、自然石の墓標を建てたが永い年月のうちに場所がわからなくなっていたが、明治23、4年頃畑で馬骨を発見し地域民が金を出し合い碑を建立した。
境内案内板によると、義経が平泉館に身を寄せていた折に小友町小黒沢に黒鹿毛の名馬が生まれ産地に因んで小黒と名付け義経に献上した。しかし、文治年間、衣川の役にて義経没落に際し、小黒を故郷に帰した。村人達は小黒が老死したとき、丁重に埋葬し石塔を建て菩提を弔ったという。以下同じ。
義経に関わる話は様々な伝説として語り継がれているが、その愛馬にまで諸説あるところが、いかにもである。また、走湯山については後年に郷土史家が付加えたものと推察する。境内案内板には、他に「遠野地方は古来名馬の産地として知られ」という一文があったが、古来とはいつ頃だったのだろう?安倍氏の時代からだったのだろうか?中でも小友町は馬産地とうよりは金山開発の地というイメージが強いのだが。それと、駒形神社等、馬の碑は多く存在するが牛については影が薄い。唯一、上郷町に丑神を祀る神社があるだけかもしれない。(牛と丑では違うか?笑)
創建は不明。伊豆走湯山関係の修験者がもたらしたものと言われる。(来内、駒木の伊豆権現と流れは一緒と思われる。)享保8年(1723)、寛政12年(1800)、安政5年(1858)に再興。棟札等によると歴代にわたり別当は平兵衛であり、別当小松家の屋号となっている。境内には市指定天然記念物イヌザクラと小黒号馬魂碑(大正元年刻建)がある。
小黒号秘話として、文治5年(1189)源義経が衣川で没落の際、小黒号を放すと生れ里の小黒沢に帰ってきた。年老いて死んだ亡骸を当地に埋葬し、自然石の墓標を建てたが永い年月のうちに場所がわからなくなっていたが、明治23、4年頃畑で馬骨を発見し地域民が金を出し合い碑を建立した。
境内案内板によると、義経が平泉館に身を寄せていた折に小友町小黒沢に黒鹿毛の名馬が生まれ産地に因んで小黒と名付け義経に献上した。しかし、文治年間、衣川の役にて義経没落に際し、小黒を故郷に帰した。村人達は小黒が老死したとき、丁重に埋葬し石塔を建て菩提を弔ったという。以下同じ。
義経に関わる話は様々な伝説として語り継がれているが、その愛馬にまで諸説あるところが、いかにもである。また、走湯山については後年に郷土史家が付加えたものと推察する。境内案内板には、他に「遠野地方は古来名馬の産地として知られ」という一文があったが、古来とはいつ頃だったのだろう?安倍氏の時代からだったのだろうか?中でも小友町は馬産地とうよりは金山開発の地というイメージが強いのだが。それと、駒形神社等、馬の碑は多く存在するが牛については影が薄い。唯一、上郷町に丑神を祀る神社があるだけかもしれない。(牛と丑では違うか?笑)