「青笹しし踊りの納め其の弐」のはずだったのが、熟慮を重ねた結果変更。

時期を逸してしまうと考えは変わるもの。画像は、火曜日の朝の様子。しかし、今は平地に雪はほんのわずか。
さて、中村の荒神様。

荒神は、一般的に火の神、かまどの神として知られるが、遠野の隣り気仙地方から南では、かまどのある部屋に鬼のような面を御神体として祀る例が多い。遠野では、荒神自体少なく、ましてや別棟で神社が独立しているのは、私の知る限り、板沢に一箇所あるのみである。(三宝荒神はあるが)従って、この中沢の荒神様がどのような経緯で、ここに祀られるようになったかについて、その真実はわからないままである。
ただ、興味深いのは別当さんからの次のようなお話で、時代は不明であるが、神社の両脇に直径が1m以上もある杉の木が当時はあり、その木に荒神の権現様が飛んできて住みついたのだと云う。そして、ある時、その権現様は近くにある深山権現とけんかをして耳をとられたので、それを守るために神社(鞘堂)を建てたと云われているそうである。

ここに登場する深山とは,荒神様と同じ地域の北東にある神社で、元は月山とも呼ばれていたようである。ここは、長学坊という修験者が司る社で社領6斗を受け、この地域でも有力な修験者であった。

今回、荒神様の内部を別当さんの好意によってお見せ頂いたが、上記の謂れある権現様(hanaさん・山ノ神さん・一如さんがブログで紹介済み)の他に、棟札が4枚納められていた。新しい順番に平成12年に現在の屋根に葺き替えた際の札、同様に昭和34年に屋根の葺き替えをした時の札。そして文政2年(1819)と明和元年(1764)の札。
最も古い明和元年のものには、遷宮導師□大檀那 愛染院廣通 奉造立荒神寶殿 他は部分的にしか解読不能。また、文政2年のものは、導師大阿闍梨 愛染院慈盁 天下恭平国土安全 大檀那御武運長栄祈所 奉造立荒神権現寶殿一宇遷宮成就祓 願主 土淵村常堅寺 別当 中沢村佐平治 大工棟梁 下宮守村吉之丞 同村 清蔵 大工 土淵村善三郎 鍛冶 新町 間野とある。

明和・文政共に愛染院という修験者が関わっているが、この愛染院は、「御領分社堂」に白山社二間四面かやぶき 愛染院と記されている。また、千葉正吾著「六角牛の山伏について」には、次のようにある。愛染院 三光坊 俗名松蔵 後裔釜石種市末崎家 所在中村 を始めとして、数代の愛染院名があり、廣通・慈盁ともに確認できる。ここで、面白いのは、最初の人物「三光坊」で、釜石に関わりのある人物として載っており、あの仙人峠に名を残す同名の人物と重なって見えるのは、私だけだろうか?

愛染院は、中村に居た修験ということになるが、中村は、小字名で中沢村の内で、この荒神様周辺から、中沢川下流の地域である。この川沿いにある大きな道のそばに白山神社の小さな社があるが、愛染院と関わりがあるかどうかは、まだ未調査。

文政の棟札には、もうひとつ興味深いことがあり、願主として常堅寺と記されているが、このことについて別当さんに確認すると、この家から常堅寺の和尚さんになった方がいるとのこと。その方は、常堅寺16世華山拈笑大和尚という。手持ちコピーの「延享度曹洞宗本末牒常堅寺」を見ると、文化5年(1805)から天保13年(1843)頃に上郷町慶雲寺から常堅寺の住職となり、後 同町曹源寺にて隠居となった「拈笑」の名が確認できる。

最後に別当佐平治の「佐平治」は、現在の別当さんの屋号で「佐平治家」となっている。「ものがたり青笹」には、明治30年歿の佐平治を初めとして現在の家長の方まで、6代としているが、棟札の佐平治から考えても、同じ名前を代々襲名したもので、少なくとも文政2年までさかのぼる旧家であることは間違いないであろう。また、家に伝えられている「おしらさま」については、愛染院とのつながりが充分考えられるのではなかろうか。

最後に 踊り納めをした青笹しし踊りの合併前の3団体のひとつ「中沢しし踊り」の庭元を努めた「七郎家」は、別当さんの北側にある川向こうであることを附しておきたい。

それにしても、良いものを観させて頂き、別当さんはじめ関係各位に感謝。

時期を逸してしまうと考えは変わるもの。画像は、火曜日の朝の様子。しかし、今は平地に雪はほんのわずか。
さて、中村の荒神様。

荒神は、一般的に火の神、かまどの神として知られるが、遠野の隣り気仙地方から南では、かまどのある部屋に鬼のような面を御神体として祀る例が多い。遠野では、荒神自体少なく、ましてや別棟で神社が独立しているのは、私の知る限り、板沢に一箇所あるのみである。(三宝荒神はあるが)従って、この中沢の荒神様がどのような経緯で、ここに祀られるようになったかについて、その真実はわからないままである。

ただ、興味深いのは別当さんからの次のようなお話で、時代は不明であるが、神社の両脇に直径が1m以上もある杉の木が当時はあり、その木に荒神の権現様が飛んできて住みついたのだと云う。そして、ある時、その権現様は近くにある深山権現とけんかをして耳をとられたので、それを守るために神社(鞘堂)を建てたと云われているそうである。

ここに登場する深山とは,荒神様と同じ地域の北東にある神社で、元は月山とも呼ばれていたようである。ここは、長学坊という修験者が司る社で社領6斗を受け、この地域でも有力な修験者であった。

今回、荒神様の内部を別当さんの好意によってお見せ頂いたが、上記の謂れある権現様(hanaさん・山ノ神さん・一如さんがブログで紹介済み)の他に、棟札が4枚納められていた。新しい順番に平成12年に現在の屋根に葺き替えた際の札、同様に昭和34年に屋根の葺き替えをした時の札。そして文政2年(1819)と明和元年(1764)の札。
最も古い明和元年のものには、遷宮導師□大檀那 愛染院廣通 奉造立荒神寶殿 他は部分的にしか解読不能。また、文政2年のものは、導師大阿闍梨 愛染院慈盁 天下恭平国土安全 大檀那御武運長栄祈所 奉造立荒神権現寶殿一宇遷宮成就祓 願主 土淵村常堅寺 別当 中沢村佐平治 大工棟梁 下宮守村吉之丞 同村 清蔵 大工 土淵村善三郎 鍛冶 新町 間野とある。

明和・文政共に愛染院という修験者が関わっているが、この愛染院は、「御領分社堂」に白山社二間四面かやぶき 愛染院と記されている。また、千葉正吾著「六角牛の山伏について」には、次のようにある。愛染院 三光坊 俗名松蔵 後裔釜石種市末崎家 所在中村 を始めとして、数代の愛染院名があり、廣通・慈盁ともに確認できる。ここで、面白いのは、最初の人物「三光坊」で、釜石に関わりのある人物として載っており、あの仙人峠に名を残す同名の人物と重なって見えるのは、私だけだろうか?

愛染院は、中村に居た修験ということになるが、中村は、小字名で中沢村の内で、この荒神様周辺から、中沢川下流の地域である。この川沿いにある大きな道のそばに白山神社の小さな社があるが、愛染院と関わりがあるかどうかは、まだ未調査。

文政の棟札には、もうひとつ興味深いことがあり、願主として常堅寺と記されているが、このことについて別当さんに確認すると、この家から常堅寺の和尚さんになった方がいるとのこと。その方は、常堅寺16世華山拈笑大和尚という。手持ちコピーの「延享度曹洞宗本末牒常堅寺」を見ると、文化5年(1805)から天保13年(1843)頃に上郷町慶雲寺から常堅寺の住職となり、後 同町曹源寺にて隠居となった「拈笑」の名が確認できる。

最後に別当佐平治の「佐平治」は、現在の別当さんの屋号で「佐平治家」となっている。「ものがたり青笹」には、明治30年歿の佐平治を初めとして現在の家長の方まで、6代としているが、棟札の佐平治から考えても、同じ名前を代々襲名したもので、少なくとも文政2年までさかのぼる旧家であることは間違いないであろう。また、家に伝えられている「おしらさま」については、愛染院とのつながりが充分考えられるのではなかろうか。

最後に 踊り納めをした青笹しし踊りの合併前の3団体のひとつ「中沢しし踊り」の庭元を努めた「七郎家」は、別当さんの北側にある川向こうであることを附しておきたい。

それにしても、良いものを観させて頂き、別当さんはじめ関係各位に感謝。
>俗名松蔵
まさに釜石を主張する名前ですねぇ。
同名なのは同一人物と思って良さそうな感じです。
オシラサマ自体を荒神とみることもあるようですし、今回もなかなか興味深い内容ですね!
アップされていたブログを訪問する度にその度合いが増していましたが、なんとかここにきて落ち着きました・・・汗
いつもながらの切り口、笛吹節がわかりやすく説明されており、少し納得と驚きを感じております。
特に常堅寺との関連、興味を覚えます。
偏った考えといいますか、誤った考え、知識もそうですが、小生、修験の場合は妙泉寺や善応寺といった真言や天台に大きく関わっていたと思ってましたので、曹洞宗等の禅宗にも関わる内容がこうしたお堂や社から見られることに実は少し勉強させられている現状です。
THE SASARA -鹿踊りのはじまり-
平成21年3月8日(日) 奥州市江刺体育文化会館にて 13時開演 大人前売 2500円 高校生以下 1500円 当日3000・2000 全席指定 12月2日よりチケット販売開始 詳細は江刺体育文化会館「0197-31-1607」まで
「出演団体」 金津流石関鹿踊・金津流伊手獅子躍・金津流軽石獅子躍・行山流久田鹿踊・行山流角懸鹿躍・奥山行山流餅田鹿踊・梁川2区金津流こども獅子躍
「賛助出演」 劇団「らあす」(花巻市)
「司会者」 菊池伯子(NHK盛岡)
「解説者」 菊地和博 (東北芸術工科大学准教授)
普段あまり見ることのできない演目を踊りますから必見ですよ! この情報をより多くの人に伝えていただけたら幸いです。
中村のお堂から、まさか、三光坊に関連する語句に行き着くとは思いませんでした。
仙人峠の神社にあった御神体は寛永6年(1629)のもので、そこに三光坊の銘があるが、愛染院の系統から換算すると年代的にちょっと無理がある(三代で135年)ような気もします。また、「釜石種市末崎家」という語句が「釜石・種市・末崎」と、それぞれ別の地域を指すようにも見受けられ、三光坊の霞場が沿岸部にも広まり、後裔がそれぞれ、その地域を治めたようにも考えると愛染院分派が三光坊を名乗った可能性もあり、想像たくましくしている状態です。
江戸時代以前は、よく言われる神仏習合の時代なので、遠野のお寺さんでさえ権現様が祀られていました。修験者だからといって特別な存在ではなくなり、和尚さんや神主さんと変わりなく、宗教行事を行なっていたのだと思います。ただ、明治になって神社から仏教色を廃したことで、それ以前の姿が見えにくくなったのでしょう。
私が神社を廻る度に思うのは、上杉謙信のように自らが神仏に帰依し、司るような武将が地方各地には居て、舘にこもった時代があるのではないかと。舘主が武士から修験に姿を変えたこともあったのでは?などと。
お久しぶりです。なかなかいいイベントですね。(でも、ちょっと高い?)開催される日程に近づいた頃に宣伝させて頂きます。
遠野では、市内の中学校の合併がほぼ決まり、三校に集約されます。そこで危惧されるのは、郷土芸能が減っていくのでは?ということです。現在は各校でそれぞれの地域の郷土芸能を生徒が伝承活動として行なっていますが、それもどうなることやら。
それはさておき、イベントでの通り踊り的な演目ではなく、きっちりとしたものが演じられ、尚且つ、他の団体のものも合わせて観るいい機会になりそうで、期待しております。できるものなら、太鼓系しし踊りが不得手な方々にもわかりやすい解説があれば幸いなのですが・・・笑
ため息が出ちゃいそうです。
観光客の為なのではなく昔から脈々と受け継がれてきた伝統で、神様の為に舞っているんだという所がとても素敵です。
やっぱり伝統芸能というものはこういうスタンスであるべきだと思います。
もともと奉納されていた場所での芸能は、なぜか皆すばらしいと感じます。遠野の様々な地域で行なわれる祭りを何年か観て廻っていますが、どれも味わい深く、より一層はまりそうな気配です。笑
話は変わりますが、私がリンクしている民宿「わらべ」通信のブログを公開しているのは、tateyaさんと同様に花の都から遠野に縁があって来た方ですよ~。
男性です。たぶん・・・・新郎役をやっていましたので。