梅雨のせいなのか、年齢のせいなのか、両方か・・・気力が上がってきません。笑
帯状疱疹が、もう少しで完治しそうなのが救いです。
そんな先日、仕事で附馬牛へ行き、話の流れでこちらへ
附馬牛町東禅寺字宿の新山神社
看板の下部に英語で「にいやま」とあります。
正面に拝殿、両脇に神社が二つあります。
定本附馬牛村誌には、この神社の要約が次のようにあります。
藩政時代は坂の下御祖神社と大袋菅原神社とここを三社として旧7月20日の例祭に、
家臣の主だった二名以上を代参させた。(御祖も菅原も当時は別の名称?)
祭神は瀬織津姫だが元は十一面観音で明治維新後、新山大権現から新山神社と改称。
棟札によると天保7年(1836)再建、別当宝明院宥慎、大正9年に神殿・拝殿を修理。
昭和に入って神殿を改築。
現在の拝殿後ろに改築された神殿(本殿)建物がこれ、拙ブログ2009.2.5参照
何度か拙ブログで取り上げた東和町の名工小原樗山の息子喜蔵(本名喜三)氏と
遠野の名工山口善太郎氏が昭和12年に造ったものです。
以前は拝殿と本殿が渡りでつながっていましたが、撤去されたようです。
昭和29年発行の先の附馬牛村誌には、この新山神社、現在「にいやま」と訓読しているが、
元は「しんざん」と音読し、早池峯神社の前身である大出新山宮の里宮で、早池峰山の遥拝所。
今なお村内の古老は早池峯神社を「おしんざん」と呼び、早池峯神社が以前「新山宮」と
呼ばれていたことに由来する。とあります。
これが平成・令和となり、周辺の人たちは「しんざん」と呼ぶことが多くなっているようです。
実は私は「にいやま」が最初で後から「しんざん」と呼ぶようになったと思っていました。
ここの別当だった宝明院、江戸時代には大寿院という名前の人もいて、
早池峰山妙泉寺文書には、度々、大寿院の名前が出てきます。
現在の大出早池峰神楽が飢饉で難しくなった時代、ここ宝明院が仲間と神楽を演じた時代
があり、先の村誌では、宝明院は大峯山の真言宗系だとあります。
江戸時代の山伏を掌握する遠野年行事は本山派の大徳院で、山伏の多くは羽黒派だった
遠野で、宝明院は珍しく当山派の山伏だったようです。
話の流れというものは面白いもので、同行者さんから、もう一か所見て貰いたい神社がある
と云うことで、翌日
宮守町上宮守のこちらへ
近々解体されることになっており、神様の魂抜きも終わったとのこと。
傍にある地神
山神
雷神
こちらは安政6年(1859)、渋沢栄一の時代で、安政の大獄があった年です。
その3年前に三陸津波があり、遠野では信成堂が開設されています。
中の棟札を確認
最初が不動明王堂、こちらが薬師瑠璃光如来、
三枚目が山神宮
裏書はいずれも天保3年(1832)で、この時初めて建立されたようです。
この年は百専右衛門が米の買い付けに仙台領へ行き大損し、また、踊鹿の開発を願い出た年。
この神社も飢饉に関係して建立されたのかもしれません。
導師は法性院了全房
寛政7年(1747)の宗門改覚帳に下宮守村 法性院とあり、由緒等の記述無し。
当時、女房と子供3人、家人1人、神子3人で生活していたようです。
その他に昭和50年に屋根替えをした時の札があり、そこには清照院権律師宝正とありました。
この方がどこの人かわかりませんが、権律師という僧侶の階級が記されているので、
天台宗か真言宗系のお寺さんに祈祷を頼んだのかもしません。
世の中、穏やかならずで、どちらが正しいと言い切ることも難しい時代、
なんとか生き抜きたいと思います。
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