14年前に一度訪ねたことがあった下宮守北端辺りの豊受神社。
解体が決まり、その前にということで、権現さんの案内で、見学させて頂きました。
神社の後方にため池があり、その東側の山には宮守氏が居た神成舘(宮守舘とも云う)
永享9年(1437)、大槌孫三郎と気仙の岳波太郎連合軍に松崎町の横田城が攻められ、
窮地に陥った遠野領主阿曽沼秀氏は三戸南部守行に救援を求めます。
守行はこの神成舘に入り、出撃前に泊まっていたところ、連合軍の夜襲に遭い、
達曽部まで引き返したところで方向転換し、馬越峠を通って附馬牛に入り、
横田城の背後から連合軍を攻め、追い返しました。
その後、守行は孫三郎を追って大槌へ入り、その戦いで矢を受け、亡くなります。
その亡骸を葬ったところが現在の附馬牛町の東禅寺跡の傍ということになります。
長い前置きでしたね~笑
本題の豊受神社
14年前にも書いていますが、豊受は食物・穀物の神様
時代は定かではありませんが、舘稲荷と呼んでいた時期があるようです。
この舘は神社の持主多田氏の屋敷だけではなく、後ろの神成舘をも意味するのでは?
と想像しているのですが・・・。
中には三神を祀る立派な社が設けてあり、提灯には別当市左衛門の名前。
その社に祀ってあったのが、この三体。
そして、真ん中の社の両脇にキツネ、他には絵が数枚あるだけ。
これだけでは、この神社がいつ建立されたのかがわかりません。
手掛かりは、
この豊受神社の掲額、筆者は宇夫方文吾
豊受は食物を司ることから、稲荷の別名として文吾によって名付けられたものと想像。
次にその宇夫方文吾、明治33年(1900)に亡くなり、大慈寺に眠っています。
江戸時代の末期には六日町にある現在の県合同庁舎北側道路角の公舎敷地、
旧村兵屋敷の道路向かい角に屋敷があり、60石取りの遠野南部家臣。
明治3~11年までは土淵町の倭文神社の神職でもありました。
額には名前の前に権中講義とあり、これは階級を表し、
神道の教導職にあったことがわかります。
これらのことから、この掲額は明治時代に豊受神社と改名されたものかと。
その後、入口の扉以外から光の入らない内部を見ても何もありそうにないことから、
しばらく像や絵を眺めていましたが、宇夫方文吾の額や手の込んだ建物を観ていると、
どうしても、ここが明治からの神社には思えず・・・。
もうそろそろ帰ろうかと考え始めたところで、暗がりに目が慣れ、
もしやと思い、内部の三神中央の社裏側を調べたところ、出てきました!
棟札です。笑
出てきた棟札以外も含め、年代のわかるものを古い順に、
1,寛政9年(1799)9月15日 梵字の棟札(私には理解不能 汗)
2,同年11月15日 奉造立地神一宇祈所
3,同年11月15日 奉造立山神一宇家内安全
以上3枚は、導師法性院 別当市左衛門 大工源次郎
別当市左衛門は中の提灯にも記されており、世襲した名前だと思われます。
次に、
写真にも載せたキツネの置物は嘉永2年(1849)12月吉日 栃内何某作
そして、
4,嘉永5年(1852)菊月初8日 奉再建稲荷大明神寶殿壱宇上和下睦如意祈所
遷宮導師権大僧都一僧祇法性院深観九拝 願主別当田多惣重郎
大工興吉 鍛冶祐助 小工長福 屋根方平右衛門
5,嘉永5年9月初8日 奉再建牛頭天皇玉殿壱宇諸願圓満○ 當邑繁盛 如意吉祥
持主 田多宗重郎
6,嘉永5年9月初8日 奉再興山神社志願成就皆令満足祈處
地主 田多市左衛門
嘉永の札はいずれも、苗字が多田ではなく田多、名前も同一人物だと思われますが、
同一時期の札でありながら、なぜ故意に変えているのかわかりません。
7,年月日不明 稲荷社安置慎之證書 本宮祠官 松本筑後守 と書かれた證書入れの表ふた
おそらく江戸末期か明治初期に正一位の證書を頂いたのでしょう。
8,大正10歳1月9日 奉造立豊受大神廣前石鳥居壱門成就之所
祭主 宮守清志 社守多田市三郎 石工上宮守 菊池何某
毒沢村 平何某 及川何某 日下何某
以上
建物内部の三つの社上にある額は、真ん中が稲荷、向かって右が天皇、左が山神
と云うことから、寛政9年の梵字の棟札はやはり稲荷なのでしょう。
さて、
7月3日の記事にも記した法性院、ここにも出ています。
鹿込神楽
前回は探せなかった法性院由緒、延享2年(1745)両派由緒書上帳には、
羽黒派下宮守村 正善坊
正善院実子無之付、下宮守村市左衛門二男俗名市之助と申候、
元禄12年(1699)12月養子に本尊へ申立仕候、同16年同村常楽院弟子罷成、
正善坊と名改申候、正徳元年正月坊跡相続仕候
とあり、下宮守ぶんの当時の修験で、後に法性院を名乗りそうな家はここしかありません。
市左衛門家と当時の正善院家は近所で、その縁から市之助が坊跡を継いだのでしょう。
上の写真の鹿込神楽さん、
昭和初期まで現在の上宮守神楽さんと一緒に活動し、小澤八幡のお祭りで袂が分かれたと
云われています。後に鹿込神楽は江刺梁川野手崎の早池峰神楽を習得。
上宮守神楽
二つに分かれる前の神楽は明治中期に、下宮守鹿込の宮守清(正確には清→清志)という山伏
から伝えられたと云われており、大正10年の石鳥居建立の祭主が宮守清志であることも含め
鹿込の山伏となると法性院
また、現在の上宮守神楽は八幡神楽と兄弟神楽だといわれることから、羽黒派法性院も
遠野郷八幡宮の例祭で神楽を演じていた一人だったと思われます。
豊受から法性院、そして、神楽と長丁場でした!笑
小さな地域で起こすもめごとは、世代を超えて遺恨が残るというひとつの例、
大人の対応ができなければお祭りにも参加する資格無しですね!
今年も中止となった遠野まつりの無念さを込めて・・・。
ただひとつ、さしでがましいですが熊の洞の舘跡、ため池後方の館山が宮守館跡となります。
神成館(南部守行縁の舘跡)はさらに1~1.5キロ北東側の上宮守の西風地区の山野となります。
この度はとんだ災難でお見舞い申し上げます。
舘の件、ありがとうございます。
それなりの地域の歴史をしょっている社だということが記述でよくわかりました。
確かに昔の修験のカスミ争いは現代までいろいろな形で残ってますね
市内には私の知っている限りで160か所なので、おそらく200を超える神社があると思います。
その中でも、ここは立派に管理されている建物ですが、個人所有の神社ということで
跡をみる方がいなくなり、解体することになったそうです。
ここ数年で個人所有の神社がだいぶ無くなってきています。
昔は、新しい神社を建て替える時に、古い建物は解体して他所の神社として再活用していた例もあるのですが、これもご時世ですね。
見る限りこの辺り歴史の一端を語る資料と思えるのですが建物以外のものはどうなるのでしょうか?
市が引き受けてくれるのでしょうかね?
権現さんが引き受けるのでしょうか?
いずれ気になります
像を含めた資料は博物館行きになるそうです。
新コロのようなことが5年も続くと、人が集まる民俗的なことが消えていくことを危惧しています。
資料として残っても歴史として残らないと後世に伝わらないですね。風習は現代生活の中で削られて行ってしまいますね。
縄文の時代から人間は同じようなことの繰り返しているんだなあとつくづく感じます。
さて来月の隣町での神楽大会の詳細が芸能ごよみに載っていましたが笛吹さんが今まで見た事がない舞の曲目もありましたので一見の価値はあると思います!(笑)
東和町の件、楽しみにしています!笑
それにしても、遠野の芸能はどうなってしまったんでしょう?
どこからも、何かやりそうな気配すら感じられません。