「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

田中清六と南部氏 其の四

2016-02-04 08:25:13 | 歴史

最終章 時代は徳川へ 

 

慶長6年(1601)

遠野では鱒沢左馬之助が幅を利かし、上野右近、平清水駿河が城代へという時、

世田米に寄宿していた阿曽沼氏は伊達政宗の後ろ盾を得て、赤羽根・平田(気仙)・樺坂峠にて戦いを挑みます。

中でも小友の樺坂峠の合戦には、南部利直の兵も参戦。その中には花巻の北十左衛門信景も。

信景は鹿角の白根金山の奉行を勤めた人物で、宿営した小友は平清水駿河の知行地であり、長野金山に関係あり。

後に平清水の娘が信景の妻となります。

 

世田米から鱒沢を経て花巻・盛岡へ通じる 小友町 新谷番所址

 

同じ慶長6年、徳川では上杉が開発支配していた佐渡金山に河村彦左衛門と田中清六を奉行として送り込み、

翌年、田中清六は5000石の年貢米を頂戴する身分となりますが、政策的に?解任されます

 

田中清六殿之六艘之内、御朱印之舟者、令出入無相違可申付候 以上 佐州浦々舟奉行

 

以前より持ち船で秋田の米などを運んでいた清六は、慶長9年、持ち船6艘となり

その内、朱印状をもらった舟では、さらに自由に商売ができるようになっていきます

武士のような、鉱山師のような、商人のような・・・この人は何なんでしょう?

この時代に、このような生き方ができたことにびっくりポン!

 

文章とは関係無く、大迫町岳神楽

 

関ヶ原の合戦当時、大迫では秀吉の奥州仕置で領地を没収された大迫右近等が奪還すべく、また攻めますが、

南部勢によってまたまた江刺へ敗走し、再び田中彦右衛門(清六の長男)の支配地となります

(はなまきまなびガイド参照)

父親である田中清六が佐渡金山に関わりある時期に重なりますが、偶然でしょうか? 

 

慶長7年(1602)

南部利直が小友金山を巡視しています

 

慶長8年12月

近江国時代からの田中一族の主格であった宮部継潤の息子長房は、家康から嫌疑をかけられ、

田中吉政に預けられ、後に南部利直預かりとなり盛岡にて没。子孫は後、苗字を変えて南部家臣。

宮部が盛岡に預けられている期間には、田中-宮部-南部-徳川との間を

清六(又は彦右衛門)が其々の様子を伝える役目を果たしていたであろうと想像

 

慶長17年(1612)

田中彦右衛門が大迫早池峰権現の新山堂、三門、鳥居を再建(ネット検索 岩手大学関係)

この彦右衛門はいつの頃にか「清六」と名乗るようになり、慶長・元和の頃には代官職を解かれ、

京都へ帰ったと云われているようです。(花巻市はなまきまなびガイド参照)

早池峰権現については、慶長13年に南部利直が参拝した折り、社領150石寄進し、

新山堂・薬師堂・本宮・舞殿・客殿が新築され、塀や門等の要害普請がされたようでもあるので、

利直の肝いりで彦右衛門が財政面を負担したのかもしれません。

ここで、またひとつ気になることが・・・

早池峰権現草創の話に大迫では田中兵部成房が遠野の始閣藤蔵と早池峰山頂で出会い・・・

と云うのが創始で、後に、田中神社もできるのですが、その田中兵部、どこかで聞き覚えがないでしょうか?

あの「田中兵部大輔吉政」と「田中兵部」まで同じ、偶然とは面白いものです

 

 早池峰大償神楽

 

 

慶長19年(1614)

大阪冬の陣の前哨戦、京都方広寺梵鐘事件勃発の少し前、8月京都にて初代田中清六正長が亡くなり、

長男は敦賀に住し二代目清六となり、二男は京都清水寺宝性院僧都宗親となります。

京都での清六は剃髪して隠居していたと云われます。

田中一族は豊臣氏に近い一族であったわけですが、

豊臣氏の命運がつきそうなこの時期に清六が亡くなり、二男が僧となったのも偶然なのでしょうか?

 

上野右近の領地 綾織町 遠野郷南部田植踊

 

元和元年(1615)

この大阪の陣により、、南部藩では、慶長6年の小友樺坂峠の戦いで出会った二人

北十左衛門信景(直吉)は大阪方について惨死、信景との関わりの嫌疑で平清水駿河は切腹

(共に金山開発に関わりを持つ者同士という一面もあるのですが・・・)

同じく、遠野クーデターの首謀者、鱒沢左馬之助も没

クーデターで残ったのは上野右近一人となります。

 

やっと、ここで、「馬の尻尾」の書状の件に、たどり着けそうです。汗

 

田中清六、馬之尾望二付、慥成案内者申付、小荷駄馬之方、不残きらせ可申候也 

卯月十六日 利直黒印 上野右近

 

附馬牛町 荒川駒形神社例祭 於 

 

上野右近ただ一人に宛てた様子を見ると、城代が一人となった時期から上野右近が亡くなるまでの間

元和元年(1615)から元和7年(1621)辺りが有力ではないでしょうか?

と、云うことで、清六と右近書状の話はここまでといたします。

(ところで、この時、二代目田中清六は、実のところ、何をしに遠野に来たのでしょうか?)

疑問も残り、想像も膨らみますが、どんどはれ!

 

 

 

 

 



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9 コメント

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楽しみですねぇ・最終章 (ビナヤカ)
2016-02-06 18:03:16
なるほど、あの書状の清六は二代目でしたか、しかし、二代目と南部領とのつながり、面白いですねぇ~^^

また、田中神社がらみも最高です♪

書状の年代も妥当ではないかと思われます。
元和7年から横田城代として毛馬内三左衛門が遣わされているようですので清六はその先駆けとして遠野の様子を探ってくるように利直から命じられて来たのかも....もちろん馬の尾もほしかったと思いますが(笑)
なにせ、この6年後には直栄に国替えを命じているだけになにやらプンプン匂いますな♪

策士利直、侮れませぬ....まだ彦九郎と称していた頃より、上野与三郎宛に文を遣わしています。この与三郎、右近の幼名ではなどと妄想が膨らみます(笑)


まずは、勉強になりました、ありがとうございます。
またお会いできる日が楽しみです...♪
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清六 (笛吹)
2016-02-06 20:01:48
ビナヤカさんへ
清六は商売になる産品を求めながら、金山・銀山のある処は、
おそらく実地検分していたのでは?と思います。

早池峰山関係はおまけということで・・・笑

清六はそのとおりとして、政宗を隣国に置きながらの利直の手腕は大したものだと私も思います。

今回は上野右近宛て書状を紹介して頂いたことから、久々に面白い思いをさせて頂きました。
(若干、本業が疎かになりましたが・・・笑)

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彦九郎 (笛吹)
2016-02-06 21:51:11
ビナヤカさんへ
彦九郎、上野与三郎宛書状についてですが、
南部彦九郎利直と書かれているのでしょうか?
南部彦九郎政直名で上野与三郎宛てであれば、
花巻城主政直から上野右近の孫与三郎へ宛てたものとも理解できるのですが?
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ロマン (掛け持ち人)
2016-02-08 12:41:36
仕事柄、遠野市内を走っていますが中でも上郷・小友エリアはロマンを感じる場所だと感じています。上郷には義経伝説と大峰鉱山。小友は金山とブログで述べられている荷沢の樺坂峠の戦い。
遥か昔から何かメッセージが聞こえて来るような気がします
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歴史 (笛吹)
2016-02-08 20:53:04
掛け持ち人さんへ
残念ながら石鳩岡へは行けませんでした。
休日はなかなか自分の為の時間がとれない状況が続いています。

郷土芸能そのものもそうですが、奉納する神社や芸能が伝承されてきた歴史を知ると
もっともっと楽しくなります。(私の場合 笑)
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すみません^^; (ビナヤカ)
2016-02-12 14:31:58
すみません、二度目のコメント「彦九郎 (笛吹)」、読んでいませんでした^^;)

取り急ぎ用件のみ。
「彦九郎」とだけと「上野与三郎まいる」です。

政直と右近ではなく孫の与三郎の可能性があるのですか?孫の名が「与三郎」だったとは、びっくりポン!^^/

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彦九郎 (笛吹)
2016-02-12 18:25:59
ビナヤカさんへ

南部利直が亡くなったのが寛永9年(1632)57歳、上野右近が亡くなったと思われるのが元和7年(1621)で当時利直は39歳。
また、南部彦九郎政直が花巻城に居城したのが慶長19年(1614)15歳。
という年齢を考えると、
利直が彦九郎と名乗っていた時代から上野与三郎右近と通じていたと考えるより、
彦九郎政直の時代の方が、合いそうな気がするのですが・・・
これも、想像です。笑
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楽しみです。 (ビナヤカ)
2016-02-13 19:06:38
おばんでございます♪

そうですね、続きはまたお尋ねさせていただきましたおりの楽しみとさせていただきたいと思います^^)...(前もって連絡してからのほうが良いですよね?...^^;)

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年度末 (笛吹)
2016-02-13 21:28:04
ビナヤカさんへ
今日も娘たちが今春から住む場所を選びに盛岡でした。
3月に入ると卒業、入学&就職と、もうしばらくは、バタバタしそうです。
申し訳ありません。
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