「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

田中清六と南部氏 其の参

2016-02-03 08:12:35 | 歴史

秀吉の時代は、まだ続きます 笑

この天正18年(1590)の奥州仕置によって東北は激変しますが、現花巻市大迫町では、領主だった大迫右近は

現奥州市江刺区人首へ逃れ、以降、南部氏に功のあった田中清六の嫡男彦右衛門が代官になったようです。

(花巻市はなまきまなびガイド参照)

ここに田中清六の長男彦右衛門が初登場となりますが、部外者の田中を代官にしたのはなぜでしょう?

(ちなみに長男が代官となるには年齢的に、まだ、早いように思えるのですが)

 

大迫町大償神楽系東和町土沢神楽

 

文禄4年(1595)

豊臣秀次切腹。この時、秀次の側近も処刑されるが、ただ一人田中清六の一族と云われる田中吉政は含まれず。

田中吉政の主、宮部継潤(かつて秀次は宮部へ人質になり、後、宮部の養子)は秀吉の側近

 

この秀次が関白だった時代の書状

 

猶以於京都御用等可承候、可属御存入申候 雖未申通候、遂啓問申候

田中清六鷹取差下候 夏中自然鷹数少候者・・・二月廿六日 秀次(花押) 南部殿御宿所

 

秀次が南部利直に鷹を田中清六にやるように要望しているようです。

太閤秀吉の側近には宮部継潤がおり、田中吉政は秀次の御咄衆、

田中清六は豊臣氏の近辺にいられる立場だったようです。

 

さて、時は慶長へ、慶長3年(1598)太閤秀吉が無くなります。

またまた、文章とは関わりありませんが、鱒沢左馬之助の知行地に伝わる神楽

 

慶長4年(1599)

飛脚到来祝着候、其表之様子得其意候、猶田中可申也

十一月二十日 家康(判) 戸沢九郎五郎殿

 

角館城主戸沢政盛が家康に上杉景勝の動向を知らせた際の返状

時代が豊臣から徳川に移るこの頃には、田中清六は家康にも通じていたことがわかります。

 

慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原

其元迄帆出陣之由、御大儀候、内々田中清六ニ申候間、御参陣有間敷ト存候処、

それ迄御出陣祝著之至候、早々有帰陣、御休憩尤候、恐々謹言。

八月十九日 家康(花押) 南部信濃守殿

 

前年に田中清六と親しかった南部信直が病死しており、

信濃守は南部信濃守利直で、田中清六は引き続き南部氏と通じています 

関ヶ原の合戦では奥羽勢は上杉氏に対峙している最上氏加勢の為、山形へ出陣

北奥羽各氏は家康から利直へ出したものと類似の書状を田中清六を通じて受け取っているようです。

 

小友町 平清水駿河に縁ある西来院

 

遠野ではこの最上加勢に南部傘下として出陣、

阿曽沼広長を筆頭に上野右近名代養子上野九右衛門(江刺人首伊賀三男)、板沢平蔵(小友平清水駿河の系統?)、

達曽部弥兵衛、大原新右衛門、小友喜左衛門、新里平蔵、宮守主水、遠野小組。

この顔ぶれを見ると、遠野小組と大原を除くと下郷周辺の人物。

後にクーデターを起こす首謀者三人衆に近い人たちに見える。

阿曽沼広長は、山形からの帰途、鱒沢左馬之助、上野右近、平清水駿河らのクーデターにより、

遠野へ帰ること叶わず、世田米へ落ちることになります

 

石碑にある一部の年代の記述には疑義ありですが、この時代の遠野には秀吉の奥州仕置後に逃げ延びてきた

多くの葛西系武士が南部氏より所領を頂戴し、阿曽沼旧臣と共に命運をかけた駆け引きが繰り広げられます。

ある者は、三戸へ仕官の為移動し、ある者は帰農、そして、ある者は新たに遠野に知行地を得、ある者は商人に

と、いう状況の中で、遠野が最も荒廃した時代に突入していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 



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2 コメント

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楽しみですねぇ・其の参 (ビナヤカ)
2016-02-06 17:22:32
こんばんは^^)
秀吉の奥州仕置後に逃げ延びてきた葛西系武士団の中に私のご先祖さんもいらっしゃったようです(笑)

それにしても田中清六、豊臣氏への見限り!すばやいですねぇ^^;)
角館戸沢氏へもそうですが、意外と遠野阿曾沼氏も訪問していたのかも......しかし、聞く耳を持たずってなのはどうでしょう(笑)

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清六 (笛吹)
2016-02-06 19:44:17
ビナヤカさんへ
江刺重恒にも通じていた清六さん、きっと阿曽沼氏にも接触していたと私も思っています。
結果は、そのとおりで、葛西系の方々は幸せを運ぶ使者を信用できなかったのかもしれません。笑
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