「早池峰山妙泉寺文書」所謂「宮本文書」を此の所、ず~と読んでいる。先週は、雪が降ったり、晴れたりと、どうもパッとしない天気だった。(下の写真は、11月22日のもの)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4f/5a4a3b3d640cb6e3ee451257bfb0c2c5.jpg)
妙泉寺の由緒に興味があったのではなく、妙泉寺から、善応寺や東禅寺のこと、そして、見えにくい遠野の歴史・郷土芸能のことなど、思いっきり欲張って、パンパンに膨らんだ空想を描き続けているのだが・・・。
11月25日、気晴らしに、附馬牛まで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/84/5a621eb9dcfdd8dea856bc0f67dcf716.jpg)
連休に入ってから、良い天気が続き、里の雪も消えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/d7/3a4189b75ca855b5fa1d087112c1d733.jpg)
蓮池は日中にも関わらず、氷。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ba/f0b8179f8f837a36d0ccc5ddbaad09b4.jpg)
かつての早池峰神社の写真。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2b/05b7bb88e893fd40e2a73c736fcf07c7.jpg)
そして、同じ石碑。道路が、高くなって台座が埋もれているのがわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/09/5024b54e03a3220840b19c90ddac7161.jpg)
山門。コケと古くなった萱、そして、白いもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/cc/985be5201e4e8358956e5c5009fbab8b.jpg)
右手:神社境内、中:大橋商店周辺。茅葺屋根の里。配置は今もそれほど変わってはいないようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/25/1ffef1251fd1519d47debc3b25e60ce2.jpg)
神社左側の道路沿いにある萱場から薬師を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/68/ee13b0b8172b308732a4d9680ffd2c9f.jpg)
道路脇には、なぜか、タンポポ。葉は枯れているのに、花だけが。(どうなっているのか、この気候)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/65/b89bd28bb72f88ca9b098c9b15204aa3.jpg)
帰りしな、東禅寺川からの夕暮れ?まだ、3時過ぎなのにこの暗さ。
阿曽沼氏は、馬越峠を越えて、駒木の堀合に草鞋を脱いだと一説には云われている。綾織の砂子沢ではなく。下野国に居たとされる阿曽沼氏がなぜ、遠回りとなる達曽部経由の馬越峠を来なければならなかったのか、ずっと不思議に感じている。それと高屋四郎なる人物が同道したとされるが、南部家臣にも同姓同名の人がいることも。
また、阿曽沼氏に関係する伝承は、どちらかというと、綾織から鱒沢に多く、これは代官だったとされる宇夫方氏に起因するものと思うのだが、館のあった松崎には、宇夫方氏の影すら見当たらない。
妙泉寺文書では、開山当時の領主は不明となっており、阿曽沼氏が初めて登場するのは、文安元年(1444)遠野領主阿曾沼参河守入道禅頭という人からであり、この人が、横田城下に一精舎を建てたのが、横田妙泉寺の始まりとなる。この時の横田城(館)とは、どこだったのだろう?永享の変(1437)の際に護摩堂城を攻められているので、現在の鍋倉に移った直後のことだったのだろうか?それにしても、気仙勢から攻められているのに、気仙に近い場所に移動するのはどういう訳があったのだろう?疑問は尽きない。
ところで、大出妙泉寺は何度も修理・再興されているのだが、最も古い記述として、その再建に尽力している固有名詞が登場するのは、宝治2年(1248)で、前年に焼失していた堂宇を遠野住「紺野新左衛門尉」が寄進している。この人は誰なのだ?ず~とひっかかっている人物。横田住ではなく、遠野住であることも気になる。
宝治元年とは、鎌倉時代で、執権北条氏がかつての源頼朝恩顧の武将を次々と倒していった仕上げの時期でもある。この最後に、千葉氏や三浦氏はクーデターに失敗し、関係した人々は、糠部得宗領に逃げ込んだとされている。この時に糠部周辺にやってきたのは、遠野に縁のある苗字の方が多い。
抜粋
佐野、小笠原、武田、加藤、葛西、田中、横山、佐々木、工藤、名久井、阿部、和田、角田、小山田、伊豆、藤沢、平、橋本、青木、山口、石田、米田、高橋、稲葉、中村、久保田、中里、福田、浦田、藤田、中山、小泉、太田、中村、金沢、古川、荒川、田代、川井、木村、大久保、赤坂、木戸、関口、久保、岩崎、山田、佐藤、西村、林、大森、成田、浪岡、曽我、小向、上野、高木、平山、橘、平沢、山谷、平野、中田、長沼、村上、高谷。etc
こんなに載せても、私の苗字はない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4f/5a4a3b3d640cb6e3ee451257bfb0c2c5.jpg)
妙泉寺の由緒に興味があったのではなく、妙泉寺から、善応寺や東禅寺のこと、そして、見えにくい遠野の歴史・郷土芸能のことなど、思いっきり欲張って、パンパンに膨らんだ空想を描き続けているのだが・・・。
11月25日、気晴らしに、附馬牛まで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/84/5a621eb9dcfdd8dea856bc0f67dcf716.jpg)
連休に入ってから、良い天気が続き、里の雪も消えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/d7/3a4189b75ca855b5fa1d087112c1d733.jpg)
蓮池は日中にも関わらず、氷。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ba/f0b8179f8f837a36d0ccc5ddbaad09b4.jpg)
かつての早池峰神社の写真。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2b/05b7bb88e893fd40e2a73c736fcf07c7.jpg)
そして、同じ石碑。道路が、高くなって台座が埋もれているのがわかる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/09/5024b54e03a3220840b19c90ddac7161.jpg)
山門。コケと古くなった萱、そして、白いもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/cc/985be5201e4e8358956e5c5009fbab8b.jpg)
右手:神社境内、中:大橋商店周辺。茅葺屋根の里。配置は今もそれほど変わってはいないようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/25/1ffef1251fd1519d47debc3b25e60ce2.jpg)
神社左側の道路沿いにある萱場から薬師を望む。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/68/ee13b0b8172b308732a4d9680ffd2c9f.jpg)
道路脇には、なぜか、タンポポ。葉は枯れているのに、花だけが。(どうなっているのか、この気候)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/65/b89bd28bb72f88ca9b098c9b15204aa3.jpg)
帰りしな、東禅寺川からの夕暮れ?まだ、3時過ぎなのにこの暗さ。
阿曽沼氏は、馬越峠を越えて、駒木の堀合に草鞋を脱いだと一説には云われている。綾織の砂子沢ではなく。下野国に居たとされる阿曽沼氏がなぜ、遠回りとなる達曽部経由の馬越峠を来なければならなかったのか、ずっと不思議に感じている。それと高屋四郎なる人物が同道したとされるが、南部家臣にも同姓同名の人がいることも。
また、阿曽沼氏に関係する伝承は、どちらかというと、綾織から鱒沢に多く、これは代官だったとされる宇夫方氏に起因するものと思うのだが、館のあった松崎には、宇夫方氏の影すら見当たらない。
妙泉寺文書では、開山当時の領主は不明となっており、阿曽沼氏が初めて登場するのは、文安元年(1444)遠野領主阿曾沼参河守入道禅頭という人からであり、この人が、横田城下に一精舎を建てたのが、横田妙泉寺の始まりとなる。この時の横田城(館)とは、どこだったのだろう?永享の変(1437)の際に護摩堂城を攻められているので、現在の鍋倉に移った直後のことだったのだろうか?それにしても、気仙勢から攻められているのに、気仙に近い場所に移動するのはどういう訳があったのだろう?疑問は尽きない。
ところで、大出妙泉寺は何度も修理・再興されているのだが、最も古い記述として、その再建に尽力している固有名詞が登場するのは、宝治2年(1248)で、前年に焼失していた堂宇を遠野住「紺野新左衛門尉」が寄進している。この人は誰なのだ?ず~とひっかかっている人物。横田住ではなく、遠野住であることも気になる。
宝治元年とは、鎌倉時代で、執権北条氏がかつての源頼朝恩顧の武将を次々と倒していった仕上げの時期でもある。この最後に、千葉氏や三浦氏はクーデターに失敗し、関係した人々は、糠部得宗領に逃げ込んだとされている。この時に糠部周辺にやってきたのは、遠野に縁のある苗字の方が多い。
抜粋
佐野、小笠原、武田、加藤、葛西、田中、横山、佐々木、工藤、名久井、阿部、和田、角田、小山田、伊豆、藤沢、平、橋本、青木、山口、石田、米田、高橋、稲葉、中村、久保田、中里、福田、浦田、藤田、中山、小泉、太田、中村、金沢、古川、荒川、田代、川井、木村、大久保、赤坂、木戸、関口、久保、岩崎、山田、佐藤、西村、林、大森、成田、浪岡、曽我、小向、上野、高木、平山、橘、平沢、山谷、平野、中田、長沼、村上、高谷。etc
こんなに載せても、私の苗字はない。
どうも、どうも!妄想なくして、追求なし、追求なくして、真実探せず。会員各位のご検討を御祈り申し上げます。笑
宗教関連から歴史を紐解くは、確実性といいますか何かしら残されているものですが、遠野の場合は難しいですよね。
松崎の横田城は限りなく戦国に近い時代のものと考えておりますが、これもしかりですね。
妄想のみ先走りがちの小生でもありますが妄想協会、受信料なしで頑張りましょう・・・笑
確かに、遠野で一番多い苗字が載っていないんです。この時点では、この苗字に関係した人物の移動はなかったということかな、かな?それ以前から、土着していたか、それ以後に移動してきたことか?こうして、遠野妄想協会会長の妄想は、また大きくなる。
我が家のも無い・・・・
字的苗字が目に付く。
名字帯刀を許されたのは幕末・・・
時代を遡る事の楽しみがありますねー。
「歴史は海」・・・と高橋克彦はいった。(←生きているけど)
「人は漂う魚である」とその後に続く言葉を頂いた・・・
あれから15年も経ってしまった・・・
妄想の域を出ない私と貴方の違いですね・・・頑張ってね・・・応援してるよo(^▽^)o
そう、あの分厚い本。レ点やら一二やら、読めない漢字やらで、何度も読み返して、先に進みません。概要把握はできたものの、詳細部分の意味をもう一度読み直してと、ほんとうにやっかいな本ながらも、ハマっています。笑
ワタクシもあちこち読んだことがありますが、何しろ漢字だらけ
レ点やら一二やらを気にして読み、「漢文の時間もっと気を入れて授業を聞けば…」
などと、先に立たないことに思いをめぐらしたり(笑)
で、横田城が鍋倉に移った時代ですけども、慶長になる少し前くらいではないでしょかね?
それに不満もありのクーデターだった気が…
詳しくは「じぇんごⅡ」をしばらくぶりにのぞいてみようとおもてます(笑)
秘仏…見たら聞いたら、おいらにもおせーてね^^)~