先日、機会があって奥州市江刺区の「えさし郷土文化館」へと足をのばした。「えさし藤原の里」に隣接していながら、ここには入館したことがなかったのだが、清衡、慈覚大師縁の仏像を企画展示しているとのことで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/64/07326340561af3942705962bf27a4de4.jpg)
建物は近代的なデザインで、この地域の風景にあっているのかどうかは別として。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/62/75d621c990b38ceb44727b6c7494b1e8.jpg)
「清原公の祈り」と題する企画。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/59/f2a052dbdde2dae71edee48097f073e1.jpg)
奥州蝦夷の征討の為、時の中央政権の東北開発の為に行なわれた前九年の役で、父である藤原経清を失い、後三年の役で妻子を失った「清衡」。この時点では、中央政権側の立場にありながら、後に、白川以北青森までの膨大な東北という地域を治めることになる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/dd/d32220900216bfd7c322164ed1097e2f.jpg)
平安時代、平泉を中心に天台仏教をもって治世したと云われる藤原氏。宗教上の詳細な事柄についてはよく知らないが、白山や出羽ともつながりがあったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5b/e802787199c3ba976a84db695bbf307a.jpg)
その清衡が当初住んでいたとされているのが豊田館で、江刺にあり、その場所には二説あり。この江刺、実は、神社の宝庫でもあり、遠野を上回る数が現存する。その中のひとつ「藤里智福愛宕神社」には、平安時代の作とされる木造兜跋毘沙門天立像があり国重文となっている。また、十一面観音もあり、慈覚大師縁の神社である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/5e/cb6ff9173edb529ba8f18d477d334d56.jpg)
同じ愛宕神社の毘沙門天三尊立像。県文。平安から鎌倉時代の作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/9b/ef3967f0fc20493ab043770409cdda44.jpg)
また、梁川白山神社にある聖観音菩薩立像。平安時代の作。坂上田村麻呂が戦勝祈願に白山権現を祀ったのが起源とされ、葛西一族栗生沢氏の鎮守となった神社。白山は平泉藤原氏も崇拝していたものでもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/18/a22b7e7d9f47093a9097cea83c8ab9eb.jpg)
中には、花巻市の鈴木栄次郎作の興福寺五重塔の1/15の模型が展示されていたが、社寺建築の技術を有する人が岩手県内には、まだ、沢山いるのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/5f/ceb93b5dfd0cea241ec80c6438fa9209.jpg)
平安時代、藤原三代の栄華の痕跡は、残る仏像などから想像するしかないのであるが、中央から遠く離れた東北の山中にさえも、その時代を物語る諸物があることに感慨を覚える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/98/ae599f2b7d5ee9fc4a971d88f32376a8.jpg)
時の治世者と修験、治める人々が変わっても、守り続ける民がそこには居る。残された諸物が、本来、その場所にあったものではないものも数多くあり、これらから歴史を紐解くのは難しいのだろうが、そのひとつひとつが、なぜ、そこにあるのか気にせずにはいられない。
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建物は近代的なデザインで、この地域の風景にあっているのかどうかは別として。
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「清原公の祈り」と題する企画。
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奥州蝦夷の征討の為、時の中央政権の東北開発の為に行なわれた前九年の役で、父である藤原経清を失い、後三年の役で妻子を失った「清衡」。この時点では、中央政権側の立場にありながら、後に、白川以北青森までの膨大な東北という地域を治めることになる。
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平安時代、平泉を中心に天台仏教をもって治世したと云われる藤原氏。宗教上の詳細な事柄についてはよく知らないが、白山や出羽ともつながりがあったという。
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その清衡が当初住んでいたとされているのが豊田館で、江刺にあり、その場所には二説あり。この江刺、実は、神社の宝庫でもあり、遠野を上回る数が現存する。その中のひとつ「藤里智福愛宕神社」には、平安時代の作とされる木造兜跋毘沙門天立像があり国重文となっている。また、十一面観音もあり、慈覚大師縁の神社である。
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同じ愛宕神社の毘沙門天三尊立像。県文。平安から鎌倉時代の作。
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また、梁川白山神社にある聖観音菩薩立像。平安時代の作。坂上田村麻呂が戦勝祈願に白山権現を祀ったのが起源とされ、葛西一族栗生沢氏の鎮守となった神社。白山は平泉藤原氏も崇拝していたものでもある。
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中には、花巻市の鈴木栄次郎作の興福寺五重塔の1/15の模型が展示されていたが、社寺建築の技術を有する人が岩手県内には、まだ、沢山いるのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/5f/ceb93b5dfd0cea241ec80c6438fa9209.jpg)
平安時代、藤原三代の栄華の痕跡は、残る仏像などから想像するしかないのであるが、中央から遠く離れた東北の山中にさえも、その時代を物語る諸物があることに感慨を覚える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/98/ae599f2b7d5ee9fc4a971d88f32376a8.jpg)
時の治世者と修験、治める人々が変わっても、守り続ける民がそこには居る。残された諸物が、本来、その場所にあったものではないものも数多くあり、これらから歴史を紐解くのは難しいのだろうが、そのひとつひとつが、なぜ、そこにあるのか気にせずにはいられない。
宗教の力は大きいのですよ。当然それは、中世時代と
なっても同じだったようです。
頼朝や北条氏が弁財天を祀ったのも、当然意味があり
仏像の持つ力が信仰の力だったと思いますだ。
円空が白山信仰に、その生涯の殆どを捧げたように、
その根強い白山信仰を紐解いて、東北との係わり合
いもまたわかると思います。それは当然、遠野も含
めて。
今度は、仏像彫刻にも手を染めてみては?(^^;
でっ、小生も某団体の研修で藤原の郷、平泉に来週出掛けて来ます。
宗教分野へ本格的に手を広めると収拾がつかなくなりそうです。あくまでも、遠野とのつながりの部分までで勘弁して下さい。仏像については、国宝級のものを京都や奈良で見たものと比べてどうだという程度の感覚した持ち合わせておりません。汗
そちらの分野は、お任せします。笑
藤里の現地で拝見したことがないので、いつかは見たいと思っていました。藤原氏関連の歴史が眠る江刺・平泉は、歴史マニアにとっても大変興味深い地。単なる観光客とは違った目線で眺めると、発見するものも沢山あるものと思っています。
で、某団体の研修、本来の目的はそれとして、お土産話になるような収穫を期待しています。