本日の岩手日報に、青笹町糠前の弁天様についての記事が載っていた。社が改修されたとのこと。また、少し前の遠野遺産に、ここが認定されたことも思い出し、現地へ赴く。
これは、去年に撮った現地の様子。
社周辺は、草ぼうぼうで、まるで、物置にでもしているかのような光景だったのだが・・・・
ご覧のようにきれいになっていた。
屋根と回廊を改修されたようである。
4年前に、近所の方から、お話を聞いた時には、由緒は不明で、正月に辺りの人が参拝する程度であり、弁財天を祀ってあるということしかわからなかった。
遠野遺産に登録する話を耳にしたときには、なぜ、あそこが?とも思ったのだが、これまでの状況を地域の人達が良しとしていなかったのが、今回わかり、あらためて遠野恐るべしと思ったところである。
先日、お祝いが催された直後なので、社内もきれいに片付いており、弁天様と思われる仏像も微笑んでおられるような気がした。ここで、画像には紹介しかねるが、今回の改修に助成した方々の奉名額があり、そこには、菊池姓がずらりと並んであった。飯豊には、多くもないのに、そのすぐ下の糠前は、菊池の宝庫である。
遠野遺産の認定書も飾ってある。
社とこの別当であるお宅の間には、湧き水があり、おばあさんが、大根を洗っていた。(漬物にするのだろう)
さて、この弁才天、ご承知のように水に関わりのあるもので、海の民の信仰が厚いとされているのであるが、農業や商いの方々にも、信仰されているようだ。新聞では、この地域が洪水で被害を受けたことから、祀られたのではないかと記されてあったが、そばに大きい川がないことから、この湧き水を祀ったものだろうと私は推察するのだが。
いつもの資料にて、青笹町の社を確認すると、弁財天は載っていない。宝暦10年(1760)前後に作られた資料である。新聞では棟札は、古いもので文化年代のもので、庚申塔の石碑も文化とあり、1800年初期に始まった社であると考えられる。
この帰り道、aboutさんから、情報提供を頂いた土淵町林崎の宝了社の鳥居が新しくなったとのことで見に行ったのだが、生憎の天気で、写真は後日となった。そこで、提供頂いた宝了社の棟札を。
文政年間のもの。
遷宮師喜楽院の文字。
喜楽院については、こちらを参照。
五日市文殊堂を拠点としていた修験者であるが、駒木に、喜楽院銘の札があるという話を聞いているので、駒木から土淵の範囲内であろうと推察される。また、喜楽院の弟である正福院が栃内に行くまでは、飯豊、柏崎、高室を除く現土淵町の中に霞場があったと考えている。飯豊を除く土淵には、柏崎村=大法院、高室村=和光坊、栃内村=正福院、常楽院、法光坊、常甚坊、菊本坊、学善坊、智教坊、土淵村=喜楽院、多宝院、福泉坊、万蔵坊、明楽坊、大泉坊、吉本坊、市明院、秀山坊などの名前がみえる。しかし、これらの名前の方が、同じ時代に全ていたわけではなく、踏襲過程での名前も含まれているものと思われる。
本日の帰り道にみかけた「遠野なもの」 リヤカー
これは、去年に撮った現地の様子。
社周辺は、草ぼうぼうで、まるで、物置にでもしているかのような光景だったのだが・・・・
ご覧のようにきれいになっていた。
屋根と回廊を改修されたようである。
4年前に、近所の方から、お話を聞いた時には、由緒は不明で、正月に辺りの人が参拝する程度であり、弁財天を祀ってあるということしかわからなかった。
遠野遺産に登録する話を耳にしたときには、なぜ、あそこが?とも思ったのだが、これまでの状況を地域の人達が良しとしていなかったのが、今回わかり、あらためて遠野恐るべしと思ったところである。
先日、お祝いが催された直後なので、社内もきれいに片付いており、弁天様と思われる仏像も微笑んでおられるような気がした。ここで、画像には紹介しかねるが、今回の改修に助成した方々の奉名額があり、そこには、菊池姓がずらりと並んであった。飯豊には、多くもないのに、そのすぐ下の糠前は、菊池の宝庫である。
遠野遺産の認定書も飾ってある。
社とこの別当であるお宅の間には、湧き水があり、おばあさんが、大根を洗っていた。(漬物にするのだろう)
さて、この弁才天、ご承知のように水に関わりのあるもので、海の民の信仰が厚いとされているのであるが、農業や商いの方々にも、信仰されているようだ。新聞では、この地域が洪水で被害を受けたことから、祀られたのではないかと記されてあったが、そばに大きい川がないことから、この湧き水を祀ったものだろうと私は推察するのだが。
いつもの資料にて、青笹町の社を確認すると、弁財天は載っていない。宝暦10年(1760)前後に作られた資料である。新聞では棟札は、古いもので文化年代のもので、庚申塔の石碑も文化とあり、1800年初期に始まった社であると考えられる。
この帰り道、aboutさんから、情報提供を頂いた土淵町林崎の宝了社の鳥居が新しくなったとのことで見に行ったのだが、生憎の天気で、写真は後日となった。そこで、提供頂いた宝了社の棟札を。
文政年間のもの。
遷宮師喜楽院の文字。
喜楽院については、こちらを参照。
五日市文殊堂を拠点としていた修験者であるが、駒木に、喜楽院銘の札があるという話を聞いているので、駒木から土淵の範囲内であろうと推察される。また、喜楽院の弟である正福院が栃内に行くまでは、飯豊、柏崎、高室を除く現土淵町の中に霞場があったと考えている。飯豊を除く土淵には、柏崎村=大法院、高室村=和光坊、栃内村=正福院、常楽院、法光坊、常甚坊、菊本坊、学善坊、智教坊、土淵村=喜楽院、多宝院、福泉坊、万蔵坊、明楽坊、大泉坊、吉本坊、市明院、秀山坊などの名前がみえる。しかし、これらの名前の方が、同じ時代に全ていたわけではなく、踏襲過程での名前も含まれているものと思われる。
本日の帰り道にみかけた「遠野なもの」 リヤカー
石神の園近辺の屋敷跡、なかなか面白そうですね。移転したとすれば、その経緯も知りたいところです。
過去ログにより確認いたしました。
この分野もまた奥が深そうですね、円有の屋敷跡は石上の園の上方の山野らしいです。
目だった遺構等はなさそうですが、他の館跡探訪の合間をみてそのうち探訪したいと思ってます。
ご教授ありがとうございました。
遠野移住初代慈聖坊から9代慈聖院まではわかりますが、この慈玄坊と同系列かはわかりません。(違う系譜かとは思いますが)
また、この羽黒派頭襟頭慈聖院については、拙ブログの2007年2月12日ぶんをご覧下さい。この方の直系のお宅は、綾織町下綾織向いに、今もあります。
山猫さんとこでの二郷神社、慈玄坊とは慈聖防とは関連ありますかね。
慈聖坊は円有ともいわれるそうですが、綾織新田辺りに屋敷があったとか。
黒沢尻五郎こと安倍正任直系(豊間根氏)の分家で20数代を数える子孫とか・・・何か知ってましたら後でご教授ください。
現阿部家とか?
直接確認に行ってこう…。
とこで翁が乗っているとすると、大抵は宇賀弁財天
なので…糠前ですよね、確か花館も…糠前でしたか?
もしかして、館と関連するかもしれませんね。建物
や仏像そのものは古くないようなので、一度焼失し
て復興したものという可能性が強いでしょう。ただ
し以前からの信仰は根付いていて…確か糠前に数件、
宇賀弁財天を祀っていた家があった筈なので、気に
なった次第です。
頭の上に載っている様に見えますね。老翁と言われればそのようにも見えます。しっかりと見てないので何と言えませんが。
んでした…。
ところで写真ではよく見えないのですが、弁財天の
頭の上に、もしかして老翁が乗ってません?
「なもの」→「名物」・・・なかなか、よろしいのではないでしょうか!
シリーズ化できるものなら、したいのですが、これで、「なもの」に出会うチャンスは、そう多くはない・・・おそらく。
で、最後の画像に一票!
笛吹様の今後の新ジャンル「遠野なもの」シリーズを!
で「遠野なもの」と・・・そのまま入力すると→遠野名物、出ます(笑)
江刺のことコメして頂いて結構でがんすよ~ここのところ平日の更新は難しいですから。天気もよくないし・・・。
ツイスト鳥居は、他にも、まだまだ、あるから探して下さい。それに、どれかが新しくなれば、ツイストイ状態になるものも出てくるのは道理。佐賀市街もとい探し甲斐がありますよ~
あ、江刺のことで考え中だった
あ
えんとりがあたらしくなっている
あ
宝了社、ついに見ないでしまった(あ~あ)
あのツイストを踊る鳥居が遂にリニューアルですか?
ああ、惜しい、、いや・・・よく頑張った!(w
でも、まがったものが全部真っ直ぐになったら、これはまたこれでちょち寂しいです(w