●遠野古事記●宝暦13年(1763)宇夫方広隆著
八戸より被召連大工四五人、地方七石づつ被下、御台所に被差置 朝夕の御賄い被下居候処、二三年過ぎ候へて御暇を願い、故郷に帰候者有之。両人残り候内、一人は病死、相続の男子なく遺跡断絶仕候由。一人喜右衛門の子喜蔵は粗細工に候へ共、父死去の遺跡無相違被下大工町に居申候。此男度々致酔狂候故、世人「つくり喜蔵」とあだ名を付け、出会をいとはるる老人、頬髯白き小男、予弱年の頃迄、存命して往来仕候を見申候。喜蔵病死の時、子供は弱年にて家職も勤め兼ね候へ共、御譜代の子孫不便に被思召、遺跡の地方半知家屋敷共に被下置候処、四五年過ぎ病死仕候。八戸より参候大工共故郷に帰候以後、当所の大工、木挽、畳刺段々数人被召抱、御台所に可被差置所無之に付、町御同心の家続に屋敷を被下引移候へても以前御台所に被差置候時に不相変、新古の職人共、毎年正月元日、三ヶ日、七ヶ日、十五日、二十日に御登城、御菓子、餅、濁酒、近年迄頂戴仕候。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/33/05e5d9e2bc7c85706a413a0d2f72edaa.jpg)
「遠野大工覚書」を著した市川泰造氏は、この記述から八戸譜代の大工は、この時点で断絶したのではないのかとの思いと、後々まで「我が家は八戸譜代の大工の家柄」と名乗る人達が存在することへのこだわりから、遠野南部氏のお抱え大工であった自身の先祖を辿っている。その「遠野大工覚書」を根本資料としながら、史料に現れる大工を紹介する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/28/59f4ec878e32cd9e19e77365db7e5e00.jpg)
最も古い文献は、八戸直栄が遠野に移封された7年後の寛永11年(1634)著の「三翁昔話写本後編(御支配)」であり、20石大工重斗右門、15石大工左兵衛とその他に大工と思われると記された10人(弥助、与左衛門、弥三郎、平十郎、五右衛門、三助、助三郎、小四郎、与四郎、長七)がおり、各7石となっている。この7石は遠野古事記の石高と合致しており、棟梁格二人の配下の人達であろうと推察する。次に古事記の愛宕橋の項に寛文6年(1666)橋築造の棟梁として十左衛門が登場するが、この人物が、先の棟梁二人のうちのいずれに連なるのかは、不明。そして、その3年後に八戸氏(遠野南部家)の松前出兵準備に際し大工庄蔵、半三郎の名前がみえる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/22/a826f5d47d559070b350806cc903cd28.jpg)
その後、大工町が成立し、元禄4年(1691)早池峯山新山宮再興には大工棟梁平野庄右衛門勝吉、小工長男庄吉勝貞がおり、はじめて苗字を持つ大工の記録として残っており、「つくり喜蔵」の子が亡くなるのは、その9年後の元禄13年(1700)。譜代といわれた喜蔵の子が生存中に、平野氏が大工棟梁として遠野に地位を確立していたことになる。この平野氏がいずれから来た人物なのかは定かでないが、松前出兵の「庄蔵」とのつながりを強く感じるところでもあり、また、東和町に多く見られる平野姓との関連も惹かれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/29/adb9a6a4b99280b7770a5fa3d3a9caba.jpg)
(かつての高善旅館)
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(現在の高善旅館)
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現在、大工町通りと一般的に呼ばれるのは、下早瀬橋から、旧高善旅館の辺りまでであるが、古くは萬福寺門前から旧高善旅館辺りまでであったことがわかる。
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当初の大工町には、町同心屋敷があったが、職人を住まわせる場所を確保するために、町同心を地図上の中組方面へ新たに町割をして移したものである。
八戸より被召連大工四五人、地方七石づつ被下、御台所に被差置 朝夕の御賄い被下居候処、二三年過ぎ候へて御暇を願い、故郷に帰候者有之。両人残り候内、一人は病死、相続の男子なく遺跡断絶仕候由。一人喜右衛門の子喜蔵は粗細工に候へ共、父死去の遺跡無相違被下大工町に居申候。此男度々致酔狂候故、世人「つくり喜蔵」とあだ名を付け、出会をいとはるる老人、頬髯白き小男、予弱年の頃迄、存命して往来仕候を見申候。喜蔵病死の時、子供は弱年にて家職も勤め兼ね候へ共、御譜代の子孫不便に被思召、遺跡の地方半知家屋敷共に被下置候処、四五年過ぎ病死仕候。八戸より参候大工共故郷に帰候以後、当所の大工、木挽、畳刺段々数人被召抱、御台所に可被差置所無之に付、町御同心の家続に屋敷を被下引移候へても以前御台所に被差置候時に不相変、新古の職人共、毎年正月元日、三ヶ日、七ヶ日、十五日、二十日に御登城、御菓子、餅、濁酒、近年迄頂戴仕候。
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「遠野大工覚書」を著した市川泰造氏は、この記述から八戸譜代の大工は、この時点で断絶したのではないのかとの思いと、後々まで「我が家は八戸譜代の大工の家柄」と名乗る人達が存在することへのこだわりから、遠野南部氏のお抱え大工であった自身の先祖を辿っている。その「遠野大工覚書」を根本資料としながら、史料に現れる大工を紹介する。
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最も古い文献は、八戸直栄が遠野に移封された7年後の寛永11年(1634)著の「三翁昔話写本後編(御支配)」であり、20石大工重斗右門、15石大工左兵衛とその他に大工と思われると記された10人(弥助、与左衛門、弥三郎、平十郎、五右衛門、三助、助三郎、小四郎、与四郎、長七)がおり、各7石となっている。この7石は遠野古事記の石高と合致しており、棟梁格二人の配下の人達であろうと推察する。次に古事記の愛宕橋の項に寛文6年(1666)橋築造の棟梁として十左衛門が登場するが、この人物が、先の棟梁二人のうちのいずれに連なるのかは、不明。そして、その3年後に八戸氏(遠野南部家)の松前出兵準備に際し大工庄蔵、半三郎の名前がみえる。
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その後、大工町が成立し、元禄4年(1691)早池峯山新山宮再興には大工棟梁平野庄右衛門勝吉、小工長男庄吉勝貞がおり、はじめて苗字を持つ大工の記録として残っており、「つくり喜蔵」の子が亡くなるのは、その9年後の元禄13年(1700)。譜代といわれた喜蔵の子が生存中に、平野氏が大工棟梁として遠野に地位を確立していたことになる。この平野氏がいずれから来た人物なのかは定かでないが、松前出兵の「庄蔵」とのつながりを強く感じるところでもあり、また、東和町に多く見られる平野姓との関連も惹かれる。
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(かつての高善旅館)
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(現在の高善旅館)
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現在、大工町通りと一般的に呼ばれるのは、下早瀬橋から、旧高善旅館の辺りまでであるが、古くは萬福寺門前から旧高善旅館辺りまでであったことがわかる。
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当初の大工町には、町同心屋敷があったが、職人を住まわせる場所を確保するために、町同心を地図上の中組方面へ新たに町割をして移したものである。
だんだん思い出だしてきた
旅館のわぎのせぎとんで
かべにはっつであそんだ
この旅館にもへえった
雨戸に落書きすた。
あー
その雨戸はなぐなってらな
むがす大工町の万○寺の門前のあだりさ居だったずもや~明治の頃だど思んだども「釜けす」たらすい・・その後跡取りがなぐ、親戚筋だど思うんだども・・土淵の野崎がらオラホの爺様が養子にへ(入)ったらすいんだども詳すいごどがわがらねのサ~若げがったがら興味も無ぐ
聴がねがったのす~婆様がら聴いでおげば良がったんだども、いっっにこの世のしとでなぐなったがらな~万○寺の賽銭箱?の脇に先祖の大工の名前が書いてある話聞いだんだども確かに
書いてあるっけもや~明治前のもんだっけども墨で書いてるから今でも読めんだっけね~
どんどはれ
只今ここ大阪の写友と来年大挙(20名)し
て遠野撮影旅行を計画中です、祭りにするか
紅葉にするかまだ意見調整中ですが、万が一
決まりましたら、ご面倒お掛け致しますが、
宜しくお願い致します。
現役高善旅館。
大工町通りは一通だったのすね。
貴重な写真をありがとうございます。
高善旅館は現役?
それとも松田医院?
松乃屋さんの隣は花屋さんだったなぁ
思い出したでしょう!
私も、高校の頃まで、この角を通って学校に通いました。そして、遠野を離れた後に現在のような大工町になりましたが、町並みを揃える努力をされた地域の方々に敬意を表します。
ご先祖さんの名前が入った棟札は、瑞応院の山門と早池峰神社の社務所そばの門を見上げれば確認できますよ。
キャメラマンが遠野へ! いいですねえ~。
時期は、お祭りの頃が撮りどころが沢山あっていいと思いますが、宿がとれるかどうか?春と秋は、当たり外れがあり、難しいところですね。笑
昔は狭い道だった大工町。そして高善旅館前南側は、旅館の建物ぶんだけ道路が広がったようです。車社会に対応するために拡幅し、その後、その車を駐車する場所が不足していると嘆いていましたが、今では、あちらこちらに駐車場用地が現れはじめました。バランスというのは、本当に難しいものです。
この写真は、拡幅が始まる直前の頃のものだと思います。一如さんが女学校もとい高校に通っていた頃かな?笑
医院で思い出しましたが、中館医院の辺りの写真も見てみたいものです。