平安夢柔話

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代明親王の子孫たち

2006-08-30 09:56:23 | 系譜あれこれ
 醍醐天皇の皇子に、中務卿代明親王(904~937)という方がいらっしゃいます。ちなみに親王の母は醍醐天皇更衣藤原鮮子(藤原氏魚名流)です。

 生没年をご覧頂いておわかりのように、彼は三十代でこの世を去ってしまいます。目立った活躍もしていません。
 しかし彼の子孫からは、歴史の表舞台で活躍した有名な方々がたくさん出ているのです。今回はそんな代明親王の子孫たちを紹介したいと思います。
 さらに、彼の家計は、実はある有名な方の家計ともつながっているのです。そのことについてはこの記事の最後に書きますね。

代明親王は、妻・藤原定方女との間に、重光、保光、延光(以上の3人の男児は、臣籍に下って源姓を賜りました)、荘子女王、厳子女王、恵子女王の6人の子女をもうけています。
 では、その6人の子女を紹介し、それぞれの子孫たちについてまとめてみます。


☆源 重光(923?~998) 権大納言
 息子・源明理 娘・藤原伊周室

 まず、藤原伊周室についてみてみますね。
 彼女は、藤原伊周との間に道雅をもうけます。
 この道雅は、三条天皇皇女で斎宮であった当子内親王との悲恋で知られる貴公子です。道雅は、内親王との恋に破れたあとは「荒三位」と呼ばれていた時期もありましたが、晩年には性格も行動も落ち着き、立派な人物になったようです。

 一方、源明理の方ですが、最初は出世コースを順調に歩んでいたようですが、長徳二年(996)四月、長徳の変によって中関白家の伊周・隆家が失脚すると、左少将であった彼も伊周の妻の兄弟ということで連座し、殿上の簡を削られてしまいます。その後は出世コースから外れ、左京大夫となり、最終的には受領になったようです。名前も「長経」と解明しました。


☆源 保光 (924~995) 中納言
 娘・藤原義孝室

 保光は桃園に邸宅があったので「桃園中納言」と呼ばれていました。

 彼の娘の許には藤原義孝という貴公子が通ってくるようになります。そして、この二人との間に生まれたのが能書家として有名な藤原行成です。行成は祖父補光から桃園の邸宅を相続し、邸宅内に寺(世尊寺)を建立しました。
 また、行成は、上で紹介した明理と大変親しかったと伝えられています。


☆源 延光 (927~976) 権大納言
娘・藤原済時室

 延光にも娘がおり、彼女は小一条流藤原氏の藤原済時と結婚します。そして、藤原相任、藤原通任、藤原(女成)子などの子女をもうけます。
 そのうち藤原(女成)子は、三条天皇の皇后となり、敦明親王(小一条院)、当子内親王などをもうけます。
 そうなのです、恋人同士であった道雅と当子内親王は母方の親戚だったのですよね。このことは、今回代明親王の子孫たちを調べていて初めて気がつきました。

*延光に関しては、母不詳と書いた史料もあります。


☆荘子女王 (930~1008)
息子・具平親王 娘・楽子内親王

 荘子女王は村上天皇に入内し、「麗景殿女御」と呼ばれました。

 彼女は村上天皇との間に具平親王と楽子内親王をもうけます。

 具平親王は詩歌や学問に優れ、人柄も大変立派な人物であったと伝えられています。彼の子女としては、藤原頼通の養子となり、村上源氏の祖ともなった源師房、紫式部のいとこ藤原伊祐の養子となった藤原頼成、藤原頼通の正室隆姫女王、一条天皇の皇子敦康親王の室となった女性、後一条天皇御代の斎宮で、のちに藤原教通室となった(女専)子女王が知られています。

*(女専)子女王に関しましては、当ブログの2006年7月6日の記事「(女専)子女王 ~神がかりした斎宮」をご覧下さい。この記事の一番下にリンクを貼っておきます。

 一方、楽子内親王は、村上天皇御代の斎宮として伊勢に下向しています。


☆厳子女王 (生没年不詳)
息子・藤原公任 娘・藤原遵子

 厳子女王は関白藤原頼忠(小野宮流藤原氏)の妻となり、藤原公任(歌人として有名)と藤原遵子(円融天皇皇后)をもうけます。

*公任さんは何と言っても父親が関白。正真正銘の高貴な生まれだったわけですが、母親も皇族の血を引く女性だったのですね。もし、姉の遵子さんが円融天皇との間に皇子をもうけていたら、その皇子が天皇となり、公任さんが関白になっていたかもしれません。妄想がふくらみます。


☆恵子女王 (?~992)
息子・藤原親賢 藤原惟賢 藤原挙兼 藤原義孝 藤原義懐 娘・藤原懐子

 恵子女王に関しては定方女の書生ではないという説もありますが、私は色々な状況から考えて彼女も定方女の書生ではないかと思っています。あくまでも推測ですが…。

 彼女は藤原師輔の長子で、摂政太政大臣となった藤原伊尹と結婚します。そして、伊尹との間に親賢、惟賢、挙賢、義孝、義懐、懐子らの子女をもうけました。

 しかし、これらの子供たちはいずれも若死にあるいは出家をしてしまいます。
 親賢と惟賢に関しては記録がないため、かなり早く亡くなっていることが推察できます。挙賢と義孝は、「前少将」「後少将」と呼ばれた宮廷の人気者でしたが、同じ日に流行病で世を去ってしまいました。冷泉天皇に入内した懐子も、天皇との間に師貞親王(後の花山天皇)をもうけますが、やはり若くして世を去っています。

 ただ一人残った義懐は、花山天皇の外戚、側近として権中納言にまで出世をします。しかし花山天皇は、自分の孫の懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を待ち望む藤原兼家の謀略によって退位、出家をさせられてしまいます。そして義懐も、花山天皇に殉じて出家をしてしまいました。
 こうして残された母の恵子女王の悲嘆を思うと、切ない気持ちになってきます。

 ところで、恵子女王の項を読んですでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、恵子女王の子の一人「義孝」…。そうです、恵子女王の兄弟の源 保光の娘の婿となった義孝その人です。つまり、義孝と保光女はいとこ同士で結婚したことになります。もしかするとこの二人は幼なじみだったのかもしれません。そして、二人の間に生まれたのが前述したように藤原行成です。

 こうして、代明親王の子孫たちを眺めてみると、錚々たるメンバーであることがおわかりいただけると思います。そして、それらの人々がみんな親戚であることも興味深いです。

 しかし、これで驚いてはいけません。代明親王ファミリーは、この記事の最初の方でも触れましたが、平安時代の超有名人の家と血縁関係があるのです。最後にこのことについてお話ししますね。


 代明親王の妻はこの記事の最初の方でも触れましたが藤原定方女です。彼女の母は藤原山蔭女で、定方は山蔭女との間に代明親王室のほか、藤原朝忠、藤原朝成、その他に数人の女子ももうけています。

 しかし、代明親王室は親王に先立って世を去ってしまいました。そこで親王は、子供たちを引き連れて妻の実家に身を寄せることとなります。そこで、亡き妻の同母妹に当たる女性に恋をしたのでした。
 親王はこの女性との結婚を望んだのですが、藤原師尹というライバルが出現してしまうのです。そしてこの女性は師尹の方に心引かれ、のちに彼と結婚することとなるのですが…。そして、彼女が師尹との間にもうけたのが、代明親王の息子の一人、延光の娘婿となる済時です。

 …と、ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、失恋をした代明親王は子供たちを妻の実家に残して本邸に戻り、やがて世を去ってしまいます。
 両親を亡くした代明親王の子供たちは、そのまま母の実家である定方邸にて養育されたことが考えられます。そして、子供たちの養育には母の兄弟姉妹も当たっていたと考えられます。
 特に、母の同母妹たちの果たした役割は大きかったように思えます。そしてその中には、のちに藤原雅正という貴族と結婚する同母妹がいました。

 ここで、「あ、そうか!!」とお気づきになられる方も多いと思います。彼女が藤原雅正との間にもうけたのが為頼、為長、為時兄弟です。そして、為時の娘が紫式部ですよね。
 つまり、代明親王の子供たちと為頼、為長、為時はいとこ同士ということになります。このように、代明親王ファミリーは紫式部の家と血縁だったのです。

 ついでに、紫式部の曾祖父で「堤中納言」と呼ばれていた藤原兼輔、その兼輔の妻で雅正の母であった女性も定方の娘だったそうです。ただこちらの定方女の母は山蔭女ではないようです。多分、代明親王室や雅正室とは年の離れた異母姉だったと思いますが…。こうしてみると、代明親王室の実家の定方の家と紫式部の家は二重の縁で結ばれていたのですね。

 代明親王ファミリーのうち、特に、紫式部の家と深い関わりを持ったのが荘子女王と具平親王でした。具平親王と為頼、為時は主従関係を結んでおり、私的にも学問を通じて親しい交流があったと伝えられています。また、具平親王が身分の低い女性との間にもうけた男児を、為頼の息子の伊祐が養子にしていますが、これもこの二つの家族が親しい関係にあった証拠ではないでしょうか。

 代明親王の血は、具平親王の曾孫で堀河天皇の生母となった賢子(彼女は藤原師実の養女となり、白川天皇に入内しました)を通じて現在の天皇家にも受け継がれています。こうしてみると歴史は現代にしっかりつながっているのだなと、深い感慨を覚えずにはいられません。

(女専)子女王 ~神がかりした斎宮