平安夢柔話

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雲林院 ~京都1泊旅行2006年春13

2006-06-10 00:14:48 | 旅の記録
 宗禅さんから少し北に行ったところに「若宮八幡宮」という小さな神社があったのでちらっと立ち寄りました。
 この場所には、源頼光の邸宅があったという伝説があるそうです。しかし、頼光の邸宅は一条大路(今の一条通)の南、堀川小路(今の堀川通)の東の左京北辺二坊五町にあったようなので、こちらの方はあくまでも伝説だと思いますが…。
 ただ、西陣界隈には首途八幡宮(義経が金売吉次とともに奥州平泉に向かったときの出発点と言われています)や義経誕生の地など、、源氏に関する伝承を伝える史跡がとても多いのだそうです。伝説の中には何らかの史実が隠されているとも考えられますから、このあたりは源氏の本拠地だったのかもしれませんね。

 若宮八幡宮をあとにし、私たちは近所のうどん屋さんで昼食をとることにしました。私が注文したのは西京みその煮込みうどんです。うどんの中にみその味がしみこんでいてとってもおいしかったです。ただ、とても熱かったので、猫舌の私は食べるのに時間がかかってしまいましたが…。おかずとして山芋のせん切りも注文しました。こちらもさっぱりとしていておいしかったです。

 昼食後に向かった先は北大路通沿いにある雲林院です。

 雲林院のあった場所は、元々淳和天皇の離宮でした。淳和天皇はたびたびこの離宮に行幸されたようです。淳和天皇が崩御されたあと、跡を継いで踐祚した仁明天皇に伝えられ、さらには仁明天皇の第七皇子常康親王に伝えられました。
 親王が出家された後、僧正遍昭を招いて寺とされ、「雲林院」と称することとなります。
 なお、「源氏物語」の「賢木」の巻には、光源氏がこの雲林院に参籠をする場面が出てきます。

 雲林院はこぢんまりとしたお寺でした。平安時代には広大なお寺でしたが次第に規模が小さくなり、今では狭い境内を残すのみとなっています。

 境内に入ってまず目に入ったのは僧正遍昭の歌碑です。上に写真を載せてみました。

 僧正遍昭(816~890)は、百人一首12番目の歌「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」などの歌で知られる平安初期の歌人です。なお、百人一首に撮られたこの歌は、遍昭が出家するずっと以前の歌で、五節の舞姫の舞いを見て詠まれたものだそうです。

 僧正遍昭は、俗名を良岑宗貞といって、桓武天皇の孫に当たる人物です。(父親は、桓武天皇の皇子で臣籍に降下した大納言良岑安世。)
 宗貞は、美男であったために宮廷の人気者でした。そして、仁明天皇の寵愛を受けた貴公子でもありました。しかし、嘉祥三年(850)に仁明天皇が崩御すると、その葬送の礼の直後、彼の姿は宮廷から消えてしまいます。彼は仁明天皇の後を追って出家をしてしまったのでした。
 その後彼は円仁に師事して厳しい修行を積み、そのおかげで僧正にまで出世しました。

 雲林院の境内には、このお寺についてを記した碑もありました。それには、上で述べたように常康親王が出家後に僧正遍昭を招いてここを寺としたということが書いてあります。常康親王は仁明天皇の寵愛を受けた皇子であり、出家前の僧正遍昭は仁明天皇の寵臣でした。二人は仁明天皇を通じて以前から親交があったのかもしれませんし、色々心通じるものがあったのかもしれませんね。
 また、遍昭は時康親王(後に踐祚して光孝天皇)とも親交があったようです。時康親王もまた、仁明天皇の皇子でした。遍昭にとって仁明天皇がどんなに大きな存在だったかがわかるような気がします。

 雲林院についてを記した碑には、雲林院は「大鏡」の舞台となったというようなことも書かれていました。この文章を穴瀬さんが読んで下さったとき、私は「あっ、そうだった!」と手を打ってしまいました。すっかり忘れていたっけ…。
 雲林院という名前はどこかで聞いたことがある……、と思っていたのですが、ここは古典「大鏡」の冒頭部分の舞台となった所なのですよね。雲林院にて、大宅世継と夏山茂樹という、昔なじみらしい190歳近い二人の翁が巡り会い、菩提講に集まっている人たちに向かって文徳天皇御代から後一条天皇御代までの昔語りをする…というスタイルで書かれたのが「大鏡」です。

 うっそうと茂った境内の木陰から、今にも二人の翁が登場して来るような気がしました。そして、菩提講に集まっているたくさんの人たち……、昔語りをする二人の翁の声……、一瞬その光景が見えたような気がしました。

 雲林院をあとにし、北大路通と大宮通が交わるあたりにてタクシーに乗り込みました。次は小野篁が建立した千本閻魔堂に向かいます。

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