平安夢柔話

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大河ドラマ「義経」第32回&無視されている平教経

2005-08-17 09:32:06 | 2005年大河ドラマ「義経」
 大河ドラマ「義経」第32回の感想です。

 一言で感想を言うと、このドラマ、あまり「平家物語」を脚色しない方が面白いです。前回はほとんど「平家物語」そのままでしたが、今回は脚色しすぎという感じがしました。そして、脚色しすぎたばかりに、かえってわけがわからなくなったような気がしてなりません。

 まず気になったのは、「順番が逆じゃないの?」ということです。
那須与一が弓矢で扇を射抜くという出来事は、佐藤継信の戦死より後のことですよね。しかしこれは、継信の戦死をラストに持っていくことによって視聴者の涙を誘うという製作スタッフ側の思惑があるのだろうなと思いました。なのである程度仕方がないと思いますが…。

 それはともかくとして、まず番組の放映順序に従い那須与一の弓矢の話から書かせていただきますね。

 扇を持って船上に現れる女性について、「平家物語」ではただ18,9歳の女房とだけ記しており、その女性の素性については一切記述がありません。そこで今回のドラマではその女性を能子(廊の御方)としたのでしょうね。確かにこの設定は劇的かもしれませんが…。私が事前に聞いていた能子と義経の兄妹対面というのはこの場面のことだったのですね、きっと。
 しかし、能子は義経に気がついていてしきりに「兄上様」とテレパシーのようなものを送っていましたけれど、義経は果たしてそれに気がついていたかどうかはなはだ疑問です。
 何よりも、二人の対面がクローズアップされてしまったことにより、那須与一の影がすっかり薄くなってしまったのがとても残念でした。しかも彼は「平家物語」では積極的に弓矢を射ることを志願していますが、今回のドラマの中では描き方がかなり違っていて戸惑ってしまいました。那須与一にはもっと自信たっぷりに弓矢を射て欲しかったと思ったのは私だけでしょうか。

 さて、もう一つの見せ場であった佐藤継信の戦死についてですが、弓矢で射抜かれてからあんなにたくさんしゃべれるものなのかなと、疑問に思ってしまいました。それに継信が死んだ直後、伊勢三郎が歌を歌い出したのにはとても違和感を感じてしまったのですけれど…。みなさまはどうだったでしょうか?
  それにしても、佐藤継信の早すぎる退場は義経にとってはかなり大きな痛手だと思わざるを得ません。武士道のことをまるでわかっていないような義経の郎党達の中にあって、継信は比較的武士道に通じており、義経の良き相談相手になり得た人物でした。継信のいない義経の郎党達は、まるで無知で物事のわかっていない集団になってしまいそうです。もちろん、継信の弟の忠信は残っていますが、残念ながら継信に比べると線の細さを感じざるを得ないです。これからの義経主従の行く末が、私には心配でたまりません。

 さて、先週ちらっと書いた「継信を弓矢で射る平家の公達」についてですが……。
ドラマでは誰が弓を射かけていたのでしょうか?…私にははっきりわからなかったのでNHKのホームページで今回のあらすじをチェックしてみました。ホームページには、「継信は資盛の奇襲攻撃にあい、義経をかばって矢を射かけられた。」という風に書かれていました。
 そうなると継信に矢を射かけたのは資盛ということでしょうか?
 しかし、矢を射かけたのは資盛ではなかったような気がします。

 実は「平家物語」によると、「大将を討ち取ってやる!」と叫んで矢を射かけたのは資盛ではなく平教経(清盛の甥)なのです。ドラマでは一度名前だけ出てきたことはありますが、あとはすっかり無視されてしまっています。「強弓の名人」・「勇猛果敢な武将」と評されていて、「平家物語」でも大活躍をしているこの武将をなぜ無視するのか、私は理解に苦しんでいました。
しかも個人的なことですが、私は平家の武将の中では教経が一番好きなのです!

 今回継信に矢を射かけたのが資盛ではないとすると、あれは教経だったのかな?……とも思えます。しかし教経を出すなら、「源氏の大将はこの手で討ち取る。」というせりふは資盛にではなく教経に言わせて欲しかったです。あのせりふを教経に言わせないということは、彼は事実上、無視されたと一緒だと思います。しかも、そのあとの菊王丸のエピソードもカットされているのですから…。
 それに私は放映以前に、「教経は完全無視され、屋島・壇ノ浦での彼の活躍はそれぞれ代役(屋島は資盛、壇ノ浦は知盛)ですまされる。」という情報を「徒然独白~手鞠のつぶやき」の手鞠さんから教えていただいていました。なのでこの時期になって突然教経を登場させたというのは考えにくいです。ですから多分、継信を矢で射たのは資盛の郎党という設定なのだと思います。

 では今回は、無視されてしまったらしい平教経についてお話しさせていただきますね。私の大好きな、愛すべきこの人物に敬意を表しつつ、書かせていただきたいと思います。

平 教経 (1160?~1185)
 平清盛の異母弟教盛の次男。兄は平通盛。
 元服したときの名は「国盛」といいました。

 国盛は仁安元年(1166)十月、憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子に際し伯耆守に任じられました。この時、若年ながらすでに元服し、従五位下に叙されていたことが考えられます。
 仁安四年(1169)正月、任民部権大輔 止伯耆守。
 治承三年(1178)十一月、清盛のクーデターによる人事移動により、兄通盛が能登守から越前守に転じたことによって、そのあとをついで能登守に任じられています。教経の通称「能登殿」は、彼の官職であるこの「能登守」に由来しています。なお、民部権大輔に任じられた仁安四年から能登守に任じられた治承三年の間に、「国盛」から「教経」と改名したと思われます。
 養和元年(1181)九月、加賀国で敗れた兄通盛の支援のため北陸道へ出陣しています。

 寿永二年(1183)七月、平家一門と共に都落ち、同八月六日、能登守を解任されます。なお同日には、都落ちをした平家の貴族たちは平時忠を除いてすべて解任されています。(なお、平時忠も八月十六日に権大納言を解任されています。)
  その後彼は水島の合戦に従軍して大活躍をし、平家が再び力を盛り返すのに貢献しています。ただし一ノ谷では義経の奇襲を真っ先に受けて敗戦し、そのまま船で屋島に逃れています。

 教経は前にも書いたように勇猛果敢な武将であり、合戦ではたびたび武功を挙げています。ほとんど平家の負けが決まってしまったような戦においても、教経は最後まで全力で戦っていました。私は彼の魅力はこんな所にあるのだと感じます。
  
 教経のプロフィールはこのくらいにして、再び屋島の合戦に話を戻しますね。

 「平家物語」巻十一「継信最期」に描かれている教経の活躍についてを、簡単に書かせていただきますね。
 「源氏の総大将はこの手で討つ!」と決心した教経は、義経に向かって弓矢を射かけました。しかし義経の前には伊勢三郎や佐藤兄弟がおり、なかなか命中しません。
けれども、この教経の放った矢の一本が佐藤継信を貫いたのでした。
 それを見ていた教経の童の菊王丸が、継信の首を取ろうとして走り寄ります。菊王丸は元々通盛の童だったのですが、通盛が一ノ谷で戦死した後に、教経が兄の形見だと考えて引き取ったのでした。
 駆け寄った菊王丸は、逆に継信の弟忠信の放った矢に射抜かれて倒れてしまいました。そこで教経は、左手で弓矢を持ち、右手で倒れた菊王丸を抱え込んで船に逃げ込んだのでした。菊王丸はやがて息絶えたといいます。兄の形見だと思って可愛がっていた童の死に気落ちした教経は、戦うことをやめてしまいました。

 このエピソードを読むと、教経という人はただ勇ましい武士と言うだけではなく、童の死に涙して戦いを辞めてしまうといった、情にもろくて人間味のある若者という感じがします。なのできっと郎党達からも慕われていたのではないでしょうか。このような愛すべき武将をドラマでは無視してしまうなんて、どうしても納得がいかないです…。

 ところが……、実は教経に関しては「一ノ谷で戦死した」という記録があるのです。「吾妻鏡」によると、教経は甲斐源氏の安田義定(源義家の弟義光の曾孫)に討ち取られたと記載されているのです。
なので今回のドラマを好意的に見ると、「教経は一ノ谷で戦死した。」という説を採用して、この後の屋島や壇ノ浦には一切登場させない……というようにしたということなのでしょうか。

 これに関しては、「教経には双子の弟がいた。」。「屋島や壇ノ浦で活躍したのは教経とは別人だが、勇猛な教経の名前を出すことによって源氏側に圧力をかけた。」など様々な説があるようです。しかし最近では、「吾妻鏡」に記載されている教経戦死は誤報であり、彼は壇ノ浦合戦の日まで生きていた。」という説の方が有力になっているようです。

 と言うのは、藤原兼実の日記「玉葉」二月十九日条に、屋島での平家の動向が記述されているのですが、その文中に「教経者一定現存」という一文があることです。
「現存」という言葉は通常、生きているという意味なのですよね。
  また「醍醐寺雑事記」でも、壇ノ浦で自害した者の中に教経の名前があることから、彼が壇ノ浦合戦の日まで生きていたということは、ほぼ間違いないようです。

 この壇ノ浦合戦の時、教経は再び「源氏の総大将はこの手で討ち取る。」という闘志を燃やし、義経を追いかけ回したと言われています。そして義経を見失ったあと、敵の武将二人を引き連れて海中に飛び込んで自害しています。
 私は、先にも書いたようにドラマの壇ノ浦合戦で義経を追いかけ回すのは知盛と聞いていますが、そのあとの自害の場面を誰が演じるかは聞いていません。まさかこれも知盛にやらせるとは思えませんしね。知盛には「平家物語」で描かれているように、戦いが終わったあと、「見るべきものは見た。」と言って静かに入水してもらいたいと思っています。
 そうなると敵の武将を引き連れて自害するのは資盛なのでしょうか?
それともこの場面は完全にカットされるのかもしれませんよね。いずれにしても教経は最後まで無視されることはほぼ間違いないようです。

 これらのことについてはまた、壇ノ浦合戦が放映された後に色々書いてみたいと思っています。

さて来週は、どうやら弁慶が熊野に諜略に行くようですね。熊野は弁慶の故郷ではないかとも言われている土地です。最近はすっかりお笑いキャラになっている弁慶の大変身に期待……と言ったところでしょうか。