平安夢柔話

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第65代 花山天皇

2008-05-21 22:22:00 | 系譜から見た平安時代の天皇
☆生没年  968~1008
☆在位期間 984~986

☆両親
 父・冷泉天皇 母・藤原懐子(藤原伊尹女)

☆略歴

 名は師貞。冷泉天皇の第一皇子として安和元年(968)に誕生しました。2歳の時に、父の冷泉天皇の退位、おじの円融天皇の即位により皇太子に立てられ、17歳で践祚します。

 しかし外戚の力が弱く(後見は母方のおじに当たる権中納言藤原義懐)、藤原兼家一家の陰謀により寛和二年(986)六月二十三日に内裏を抜け出し、花山寺にて出家、退位します。

 出家後は書写山へ参詣したり、叡山・熊野に長期間滞在修行し、正暦三年(992)ごろ帰京しました。東院に住み、以後は寛弘五年二月八日の崩御まで風流三昧の生活を送りました。

 花山天皇は芸術に優れた人物でした。東宮時代からしばしばその邸に近臣と歌合や歌会を催し、『拾遺』や『後十五番歌合』の撰者にも擬せられています。『花山院御集』もあったようですが散逸しました。現存する御製は一一八首。そのうち長歌一首、連歌二首。
 絵画にも巧みで、工芸・造園・建築のデザインにも優れていたそうです。このあたりは「大鏡」にも多くのエピソードがあります。陰謀により早々と退位させられてしまいましたが、その後は自分の好きなことや趣味に思いっきり才能を発揮したとも言えそうです。ある意味ではたくましく生きた人ですよね。
 また、冷泉上皇の御所の火事の際、いち早くかけつけるなど、父親思いだったというエピソードも伝えられています。


☆父方の親族

 祖父・村上天皇 祖母・藤原安子(藤原師輔女)

主なおじ
 円融天皇 広平親王 為平親王 具平親王 昭平親王など

主なおば
 選子内親王 規子内親王(円融朝の伊勢斎王) 盛子内親王(藤原顕光室)など

主ないとこ
 一条天皇(父は円融天皇)
 源師房・隆姫女王・具平親王二女(敦康親王室)・(女専)子女王(後一条朝の伊勢斎王) (以上 父は具平親王)
 源頼定 源憲定 源顕定 恭子女王(一条朝の伊勢斎王)  婉子女王(花山天皇女御・藤原実資室) 女(具平親王室)(以上、父は為平親王
 藤原重家・藤原元子(以上 母は盛子内親王
 昭平親王の女(藤原公任室)など


☆母方の親族

 祖父・藤原伊尹 祖母・恵子女王(代明親王女)

主なおじ
藤原親賢 藤原惟賢 藤原挙兼 藤原義孝 藤原義懐 藤原光昭

主なおば
 九の御方(為尊親王室) 女(藤原為光室)

主ないとこ
 藤原行成(父は藤原義孝)
 藤原成房 尋円 延円(父は藤原義懐)
 藤原道信 藤原公信(母は藤原為光室)


☆兄弟姉妹とおい・めい

兄弟(○は同母兄弟 *は異母兄弟)
 *三条天皇 *為尊親王 *敦道親王

姉妹(○は同母姉妹 *は異母姉妹
 *光子内親王 ○尊子内親王(円融天皇女御) ○宗子内親王

おいとめい
 敦明親王(小一条院)・敦儀親王・敦平親王・師明親王・当子内親王(三条朝の伊勢斎王)・子内親王・禎子内親王(後朱雀天皇皇后) (以上、父は三条天皇)
 永覚(父は敦道親王)


☆主な后妃と皇子・皇女

 藤原(女氏)子(藤原為光女)

 婉子女王(為平親王皇女)*天皇の退位後、藤原実資の室となる。

 藤原姚子(藤原朝光女)

 藤原子(藤原頼忠女)

 平氏(中務乳母)(平 祐之女) → 清仁親王

平平子(平祐忠女・母は中務乳母) → 昭登親王

 四の君(藤原為光女)


☆末裔たち

 花山天皇の子孫からは天皇は出ていませんので、彼の皇子である昭登親王と清仁親王、そして清仁親王の子孫たちについて紹介します。

・昭登親王(998~1035) 母は平 平子
・清仁親王(?~1030) 母は中務乳母。

 実は昭登親王の母、平子は、清仁親王の母、中務乳母の娘に当たります。

 中務の呼び名で乳母として仕えていた母が、天皇の出家後に懐妊して清仁を生みました。また中務の娘平子も同じころ、皇子昭登を生んだため、清仁は母腹宮(おやばらのみや)と呼ばれ、昭登は女腹宮(むすめばらのみや)と呼ばれました。

 このように両皇子ともに天皇出家後の御子であったことから、寛弘元年(1004)に祖父冷泉院の擬子として五宮(昭登)、六宮(清仁)の処遇を与えられ、親王宣下されます。この親王宣下には、両親王の母の身分の低さを理由に、時の左大臣藤原道長が難色を示しましたが、花山天皇の強い希望によって実現したものだそうです。花山天皇が両皇子をいかに寵愛していたかがわかるような気がします。

 その後、昭登親王は最終的には四品中務卿となりました。清仁親王は四品弾正尹となりますが、長元年間(1028~37)の初めに出家しました。

・清仁親王の子孫たち
 清仁親王の子、延信王は万寿二年(1025)、源姓を賜って臣籍に降り、白川家を立て、永承元年(1046)に神祇伯(祭祀を司る神祇官の長官)に任じられました。これより、子孫代々この官に任ぜられて明治二年まで続きます。

 ただ延信の曾孫顕広王までは、他姓の者も神祇伯に任じられることがあったので、神祇伯が白川家の世襲となったのは顕広王・仲資王以降のことです。この顕広から神祇伯に任ぜられると「王」と称するようになったので、(王家)とも称されました。

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