江戸糸あやつり人形

江戸時代から伝わる日本独自の糸あやつり人形。その魅力を広めるためブログを通して活動などを報告します。

新たなコラボレーション

2013-03-23 01:53:48 | 人形について
ニューヨークから無事帰ってまいりました。

海外は国内以上に行ってみないと分からないところがあって、
ちょっと遠距離恋愛的なところも。

稽古場を借りている時間は2時間のみ。
ダンサーの健太郎さんは、きっちりと作り上げていました。
振り付けは、アルビンエイリー舞踊団の瀬河寛司さん。
面白い、
とは思うものの、どう人形が関わるか、
関われば振りは変わっていくもの、
そのことの了解を得て作業を始めますが、
何せその場にいた人はみんな、人形を観るのは初めて。
とりわけ健太郎さんの戸惑いは大きかったと思います。

最初は順調でした。
関わりやすいし、ダンサーと人形の関係もしっかりと
分かるものでした。
僅か2分半なのですが、既に付いている振りを元に
ドラマを作り、幕切れを作らなければなりません。
ああでもない、こうでもないと模索し、
これだと気付いたときにタイムアップ。
人形だけ片付けて飛び出さなければなりませんでした。

最後の動きを立ったまま口頭で伝え、
しっかりイメージを創ってもらい、
それでも不安がる健太郎さんに、
「後の動きは、あなたの動きに人形が合わせるから」
そして
「切り落とされた人形を見て、感じて!」
そうなんです、人形は最後に糸を切られてしまうのです。

健太郎さんはきっちりと気持ちを作ってきていました。
ぶっつけ本番でしたし、会場はイベント会場にもかかわらず
観客は帰ろうとしなかったそうです。
そしてスタッフも、かみさんまでも「ジーンと来た」
と言っていました。

実は私、アルビンエイリーの来日公演を見て感動し、
ジャズダンス教室に通ったことがあります。
30年も前になりますが。
プロのダンサーを相手に私が身体を動かして
振りをつけるのですから、今思うと冷や汗ものです。
かみさんはただただ腰を痛めないようにと祈っていたそうです。
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人形

2013-03-16 00:21:47 | 人形について
人形を創っているといつも思うのだが、
「良い人形」を創るということはとても難しいし、
また創っていくうちにどんどん自分の手から離れていく。

着物を着せてから帯を考えるのだが、
幾つか候補の布を倉庫から持ってきていても、
そのどれも合わないときがある。
また帯の結び方1つで、イメージが変わってしまう。
特に今回は町人だとか武士だとか、役がはっきりしているものでないだけに、
創造性が問われてくる。

そしてカシラ。
描き方のちょっとした違いでイメージは変わるし、
結髪は尚のこと。
植えつけるだけで3日ぐらい掛かってしまったのだが、
今回は前髪をたらしていて、
その長さが1mm違うだけで、全然違った顔になってしまう。
これは、女性には良く分かるだろう。

明日出発なのだが、今日の昼過ぎまでカシラに掛かってしまった。

さてこの人形が会場の中でどのように見えるか、楽しみである。
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寛容

2013-03-15 00:07:21 | 日記
最近この言葉を何度か目にした。
それは多分、私自身がこの言葉に敏感になっているからだろう。

最初に目に入ったのは、前出の「梅原猛の授業 仏教」だった。
仏教では、この「寛容」の精神がとても大切だと。
そうしたらキリストも「寛容」の精神が大切だと説いていると
ある作家(名前を忘れてしまった)がキリスト教を追求していったときに見えた
と、新聞に書いてあった。
恐ろしい存在とマスコミによって刷り込まれているイスラム教も
私がパレスチナに行ったとき、充分「寛容」を持っていると感じた。
宗教も主義も、原理主義や教条主義に陥ったとき「寛容」を捨て去るけれども、
人間はもともと「寛容」を持ち合わせている、と私は思っている。

何でこんなことを書いているかというと、
ここのところ世の中「正義」が溢れかえっていて、
「寛容」が失われているのではないかと感じるからなのだ。
とりわけテレビで、したり顔をしたコメンテーターが発する「正義」の言葉
私はこれに耐えられなく、チャンネルを替え、揚げ句に消してしまう。
見ない。
ニュースも気持ちが悪くなる。

「寛容」とは何か、
奥が深くて私には答え切れないが、
ただ、なあなあであったり、盗んだものを、仏の慈悲に置き換えて許すことでもない。
歴史を捻じ曲げても許されることでもない。
「澄んだ」眼、「澄んだ」心があってのことだと思うのだが、
「正義」の名の元に歪められていく。

「寛容」の心、大切だと思うのだか。
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道徳

2013-03-13 01:10:12 | 日本の文化について
私の周りには、自らを無宗教だとか無心論者だとか言う人は多い。
私もかつてはそうだったのだが、神社やお寺に行くたび手を合わせる自分を見て、
自分は「日本教だ」と思うようになった。
自分に都合よく八百万の神々と付き合っているのである。
「都合よく」とはよく言ったもので、実は神道にしても仏教にしても
良く知っているわけではない。
そんな折、「梅原猛の授業 仏教」(朝日新聞社 刊)と出会った。
中学生を相手に授業を行なったその実録なのだが、
それだけに分かりやすく、且つ面白かった。

仏教の目的は、己の欲望をコントロールすることだという。
そしてその悟りに至るまでの道は、道徳につながる。
なんとその内容は、コツコツ積み重ねることとか、集中することなど、
人形遣いの修業に近いところがあるのだ。
それはさておき

江戸時代、民間の子どもたちの学校は、寺子屋だった。
その名の通り寺が学校になるのだから、仏教を通して道徳を教えた。
武士は儒教。
それが明治維新で廃仏毀釈となり、国家神道が国教になると、
その道徳が崩れていく。
今、道徳教育についていろいろ言われているが、
今更仏教を中心にするわけにいかないまでも、
その歴史はしっかり検証すべきだろう。
「維新」は、全てに良かった訳ではない。

母方の宗教の日蓮宗は、「現世利益」を追求した唯一の宗派だ。
他は皆、来世で良いことがあると説いている。
今の世の中、世界中が現世利益に走っているが、
今は苦しいけれども真面目に生きれば、素晴らしい来世(あの世)が待っている
という考え方は、文化の伝承に役立っていたのではないか
と、最近思うようになってきた。
詳細に語れるほどの知識はないのでここで止めるが、
哲学として仏教を捉え直すことは決して無駄にはならないと思う。
この本は、そのきっかけになりえる本だと思った。
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いわき

2013-03-12 00:40:52 | 日記
いわきの劇場は、照明の灯体をブリッジに吊り込むので、
照明を仕込んでいる間は、舞台上の作業はできないと聞いた。
届いた平面図や側面図、パンフレットなどからブリッジの位置を測り、
仕込図を起こそうとしたけれども、灯体の吊り位置が読み取れない。
凡その見当で図面をひき、微調整は現場ですることにして、
結果それで間に合ったのだが、
正直言って使いづらい劇場だと思った。
しかも現場に入ってから禁止事項(使用禁止の物があった)を知らされた。
図面などの資料の中に書いてあれば済むことなのに
一事が万事この調子だ。

劇場スタッフに震災の被害を尋ねると、全くなかったそうだ。
そして私たちの公演中に地震があったときは、
ブリッジに吊り込んであるので灯体が落ちることはないけれども、
ともかく速やかに舞台袖に避難するようにと言われた。

ここで私は戸惑ってしまった。
ブリッジに仕込むがゆえに使いづらいのに、
ブリッジであるがゆえに安全とは。
やはり安全第一か。

いわきでの仕事は5回目になる。
しかしまだ塩屋岬に行ったことがない。
震災の爪あとと復興の現状も見たくて、
塩屋岬から小名浜まで海岸を走ることにする。



右側に写っている家は、新築。
しかしほとんどがコンクリートの土台を残したままになっていた。
その一画に何台もの車が駐車していた。
皆サーフィンに来た人のものらしい。
海にはオットセイのような頭が、いくつも浮いていた。

瓦礫は人間の無力さを、
サーフィンは、人間の逞しさを表しているのだろうか。

小名浜の”ららみゅう”という商業施設では、
津波の高さは2mちょっとぐらいだったそうである。
そこは既に営業再開していて、
私たちは昼食に「どんこ煮膳」を注文したのだが、
余りの美味しさにたっぷり1時間かけて、きれいに平らげた。
そう、全く骨しか残らなかったのである。
この「どんこ」も、地元産ではなく青森産だという。
いつになったらいわき産の物が食べられるようになるのだろうか。

塩屋岬の灯台に、登るつもりだった。



ただ観光客は多かった。
少しでも被災地にお金が落ちればと祈っている。
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