マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

元山からの引揚げ 少女は11歳

2019年08月02日 | 学び舎

 ”バックギャモン”は先送りします。
 7月29日(火)の「お話会」に用事があり私は出席出来なかった。参加した妻はその内容を纏めていた。それを以下に掲げる。

 《今回のお話会、語り手は伊藤さん、元山は38度線の向こう、訪ねるすべはない。
 伊藤さんは、南北分断の歴史を憂い、昨今の日韓関係を、「1番近い国」のことを、もっと考えなければと述べられる。欧米人に対する考え・態度とは、全く違うとも。
 伊藤さんのお話は2回目なので、前回も含めてご紹介する。

 少女の一家は、朝鮮生まれの朝鮮育ちだった。敗戦後、「内地」へ帰ることになる。それから、翌年5月末まで、帰国の日を待つ。中国人・朝鮮人は親切だった。近くの中国領事館の運動会、朝鮮の華やかな結婚式、にも招いてくれた。日本人が行くと危ないからと、買い物もしてくれた。男は皆出征していたから、祖母・母・叔母達は、衣類を売って食いつないだ。よく言われることだが、囚人が多かったというソ連兵の、女性達への暴行は激しく、もっと北にいた22歳の若い叔母は、金日成軍兵士に助けられ、少女の家にたどり着いた。(やっと着いたのに、生き残った幼い従妹はすぐに亡くなる。その子の火葬の記憶は忘れない) 少女は5年生、母は「子どもでよかった」と言ったが、6年生の美少女はレイプされ、お母さん共々死んだ。
 そんなソ連兵なのに、行進中の合唱はすばらしく、ロシア語で覚えた。後年、「うたごえ喫茶」で、それらが、「ともしび」や「トロイカ」「カチューシャ」だったと知ることになる。

 1946年5月末、元山駅から貨車で38度線突破の、2回目の決行。途中「水商売の人」の犠牲による、ソ連兵の「マダム、ダワイ」まであった。
 そして38度線間近の鉄原駅から、真夜中・雨中の突破だった。すぐにアメリカ軍のテントに収容される。にこやかで清潔なアメリカ兵、コンビーフ・白いんげんの缶詰、チョコレート、全身かけられた白い粉・DDT。テントには1~2日で、船で釜山、列車で木浦へ、そこから引揚げ船興安丸。北朝鮮に在住していた人達は30万人もいたそうだが、それにしても満州の155万人は桁外れだ。

 玄界灘を渡ればすぐに博多なのに、腸チフス患者の多発、引揚げ者の殺到等で、博多にも下関にも仙崎にも上陸できない。船は鹿児島南端をまわり宮崎の沖から太平洋を北上、潮岬で座礁したりして、1週間もかかって、三浦半島まで。そこでまた1週間、陸軍病院で診察後、列車で、祖父の実家萩に着いたのは、元山出発から3ヶ月経っていた。

 少女は、ソ連兵の襲撃・暴行から、戦争に負けるとはこういうことだ、と知った。同時に、黒パンをくれたソ連兵のやさしさや、ロシアの歌の美しさもあったのだった。
 敗戦後も、元山の朝鮮人や中国人はやさしく親切だった。そういう体験を持つ彼女は、今の日本人の言動に納得がいかない。
 釜山から木浦への途中のこと。すれ違ったアメリカ兵の貨車から日本人に投げられたチョコレート、ガム、缶詰。列車から飛び降り、われがちに拾う日本人。母まで腰をうかし、少女は必死で止めた。頑固だったとあきれた母だが、少女には、敗戦を終戦と言いつくろう大人への不信感の芽生えだった》

 今日の一葉:富士神社の朝。夜は盆踊りが行われる
 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。