マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『東京歴史散歩』計画

2012年10月25日 | 江戸の川・東京の川

 「都高教退職者会」が10月27日(土)に予定している東京歴史散歩の今回はテーマは「巻石通りから神田川へ」と題し、神田上水跡地から神田川を遡る計画で、担当の私は、そのパンフレットを作成し、懇親会の会場確保などの準備を進めてきました。パンフレットには”巻石”の写真や地図なども挿入しましたが、兎も角漸く完成し、10月22日(月)の幹事会でその概略を話し、その線で行きましょうとの了解も得ました。参加の方々に当日お渡しするものですが、今日のブログは、そのパンフレットの”はじめに”と題する文を一部修正して掲載します。その文は取りもなおさず、神田上水の概略の説明でもあります。(写真:パンフレット表紙)



『はじめに
 
初めに今日散策するコースの概略を説明します。
 井之頭池を源流とし、途中、妙正寺川や善福寺川と合流した神田川は、江戸時代の初頭は日比谷入江へと注いでいましたが、元和年間における付け替え工事でお茶の水付近の開削が行われ、現隅田川へと接続することとなりました。
 江戸市街の水不足解消を目的として慶長年間に初めて造られたのが、日本の都市水道における嚆矢と言われる神田上水です。現文京区関口付近で、流れてきた神田川の水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園)方面に流し、右側は余水として流し、平川(後江戸川、現神田川)と呼ばれるようになりました。
 その神田上水、関口大洗堰から水戸上屋敷までは白堀(開架式)で、水戸屋敷から現工芸高校辺りまでは、石桶を用いて地下に潜り、対岸のさいかち坂へは、木樋として江戸川(現神田川)と立体交差していました。この木樋の水道は安藤広重の浮世絵にも描かれ(資料2)、現在の地名“水道橋”の語源ともなっています。
 関口から水戸屋敷までの開架であった流路は水質の保全が問題になった為、明治9年頃、その白堀にアーチ状の巻石(資料3)の蓋が掛かります。神田上水沿いの通りが巻石通り(資料1地図中青色)と呼ばれている所以です。その巻石の掛けられた神田上水、明治34年に飲用水としての役目を終え、その後は、径三尺の鉄管2本に替わり、小石川後楽園への給水も昭和10年頃に終了しました。
 今日の散策ルートは後楽園駅から牛天神・安藤坂を経て巻石通りに入り、江戸川公園からが神田川(地図中赤色)沿いで、関口でその分水の遺跡を眺めます。下流から上流を目指すわけです。川左岸(行く手右側)が関口台地(本郷台地)の縁で、寺社が数多く点在しますが、実は名高い坂も多々あります。疲労度を考え坂は訪ねませんが、掲示板などで確認してください。
 巻石通りは見た目には何の変哲もない道路です。景観的には江戸川公園からが本日の主役です。
 江戸川公園⇒関口(大滝橋)⇒椿山荘⇒芭蕉庵⇒新江戸川公園⇒永青文庫と巡って、和食のお店「いり江」での懇親会を予定しています。こちらへも是非参加下さい。
 安全に留意して散策をお楽しみ下さい。』
 当日の晴天を願うばかりです。

 
             (写真:発掘された巻石)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。