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ゆうゆう職場

地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。

酒票2題

2022-01-06 15:29:58 | Weblog
もぉ明日は松飾もとれ正月気分もだいぶんに落ち着くころ(1/9は宮司さんと総代、宮世話とで大麻などの焚き上げ式 が待つ)。ところで正月にお酒はつきものだから少し書いておく。いかにも呑み助のようだが、私には普段の焼酎か缶ビールに毎年暮れになるとJAが配布してくれる小瓶で高価であろう日本酒が加わる程度。あえて正月用にと求めたことが無い。タダだからと文句の訳でないが、頂きものの日本酒も最近の吟醸酒の例にもれず(んなにも呑み比べするわけでありませぬが)ジュースのようで、アルコールがクンッとくる感が皆無である。父が好んでいた二級酒(しか呑めない経済)のような刺激?がない。そりゃ、少し飲める方の喉ならどれだけでも通ってゆくでしょうなぁ~張り合いがないけど、これも商売。

 表題のこと。暮れのある日の朝刊に、酒のラベル=酒票 の発祥の地が我が三重県であるとの珍しく嬉しい記事。明治の初期の頃までは酒の流通は酒樽式で、酒造蔵元の印は樽にペイントしたらしい。京や兵庫の後から乗り出した三重の蔵元は、先行流通に負けまいと樽に捲いた菰にラベルとなる酒票を貼って目立とうとしたらしい。酒票ラベルの数例が写真で掲載されていたので、即パチリ。なんとわが市に『鬼笑』酒票を使っていた酒蔵:糟谷さん があったのだ。酒蔵もないほどにゆとりが無かったのか、わが市には とのこれまでの諦観??を微修正しておきます。写真の票には”伊勢鈴鹿郡亀山驛”と明記されておりますな。驛表記がよろしい。

 次は現在の一升瓶ラベル。正月用にと(本当は新嘗祭の頃に使うべき らしいby宮司さん)11/Eに神社集会で配布されたもので、しっかりと2,100円也の請求書と共にでした。濁り酒です。現職場時代の前半の頃、当時は醸造課もあり、課職員の手配により正月前には日本酒の斡旋が行われたもので、原酒とか好んで購入しました。が、そういう麗しい行いは時流に添わないようで・・・。

『三重の新嘗』から元旦祭の神前酒器にほんの少しだけ注ぎ、残りは直会で全部いただきました。久しぶりの美味しい味でした。空瓶は持ち帰り、妻が梅酒を詰めるに使うでしょう~溜まりすぎておりますぞ梅酒。
ところでどーでもええこと。ラベルのフリガナが僅かに記憶のニイナメでなくニイナエとあるのですが、脱力のWEBによれば”新嘗”=にいなめ・にいなえ・しんじょう とありました。このニイナエ酒は2012年からは四日市市の宮崎本店が造っておるとのことです。四日市市の海に近い酒造さんですから、西部の鈴鹿山脈からの水(例えばマンボを流れる水)とは離れておるように感じてしまうの残念であります。いっそ、伊賀の酒蔵からが好いかなぁ と勝手思いです。

暮れの餅搗き など(不規則時間序列展開?)

2022-01-03 18:20:37 | Weblog
年末から元旦祭にむけ総代役目がのしかかり、おまけに少しの酒と酷い咳とでブログもままならない。もっとも粗雑な精神に加齢だから、こんなもんだろう。昨夜の記事なぞ読み直しても恥ずかしい。しかし、今夜も年末のことを記録しておく!

 12/30は餅を3臼搗いた。これまでは妻が朝も暗いうちから糯米を蒸し始めるのだが、実家に一人暮らす母親をディサービスに送り出す日であるから、戻ってからのスタートであった。11時前にようやく蒸しがあがり(=蒸篭の上蓋から盛んに蒸気が出るまで1時間ほど要します)餅搗きのスタートである。といっても、いきなり杵を手にするのでなく、自動餅搗き機に蒸しあがった糯米を投入して、粒同士が絡むよう米を混ぜ合わせた。普通は杵を小刻みに振り落として米同士を絡めるのだが、餅搗きでは一番シンドイ工程である。よって母が生前の頃からプロペラ式の機械を使っておる。右上の大きなボールの中に丸くまとまった餅(もぉ半分は餅状態ですな・・・回しすぎでした)が見える。これを石臼に移し妻の手返しで杵を振るう。セットは面倒だが韓国オムニバーナーの火力には満足している。


妻が鏡餅を何セットか作ってくれてあるので、田圃と野良仕事がうまくいきますように と翌12/31には石臼の上に鋤・鍬(備中タイプ)・スコップを束ねて祭ることができた。一昨年の餅搗き記事のほうがまとまりが好い。ヤレヤレ・・・・
 そして息切れから石臼をセットする・杵を振る これらのことが難儀になってきた。いつまで餅を搗けるかなと思うと寂しい。



松に雪

2022-01-01 20:12:32 | Weblog
由来はともかく(検索しても引っかからん)、祖母や父母は『(門)松に雪がかかると佳い年になる』と元旦前後には事ある毎に口にしていた。幸いなことに昨日からの雪混じりの天候は、元旦の朝、私の一夜飾りの門松にも雪を添えてくれた。


コロナも経済も周辺外交もうまくいきますように と勝手な願いを込め、午後は神社の元旦祭。その準備には人望の無い総代ゆえ、アタフタが多い。
 大晦日の昨日には宮世話一同で社殿、拝殿に幔幕を張り、神饌品を整えた。二段の鏡餅、酒そして魚は会計担当が手配してある。当番担当の組がお供え物を持参してくれ、これらを三方に盛るのは宮世話の仕事。役を仰せつかった頃は三方の向きにひとつにも注意せずに、宮司や先輩総代に笑われ叱られたものであるが、一年近く経った今では形だけは整えるられる。
 と、油断しておると大変。年越し篝火の準備も行った。刈田の藁や大豆の豆殻・枝、そして木材の切れ端を焚き付け材にして、大きな割り木を組み上げたので、生憎のみぞれ雪の夜であったが自衛消防隊の方々に十分な炎を立ててもらえた。しかし、年越しに来てくれた先輩総代が『生もの魚用のプラ製三方が使われていない』と叱責。よく見ると、確かに、棚の奥にプラ三方がある。慌てて入れ替える。神事に詳しい彼は、生の麻を持参してくれたので麻紐で整えた鯛を改めて縛り直した。須佐之男と白山の両祭神にお供えするのだから昨日は結構疲れてしまった。


難分離(難以分離)

2021-12-24 19:23:56 | Weblog
軒先に放置したままの豆枝、僅かに残った実入りの豆殻を割って年内に片付けようとした。ところが殻から豆が離れないことが度々。乾いて割れた豆殻はねじれ、残った豆が離れないように抱きかかえておる。やはり豆と豆殻は兄弟、離れ離れは嫌なのだな。そうそう、同根の兄弟、仲良くしていないと兄弟ごと辛い目に会いますよ・・・表題を書くのに便利な翻訳簡単ソフトを見た。( )のとおり中文では以が必要なのかな。ところで肝心の大豆の収穫量はたかだか・・・豆も満足に作付け出来ないのだ。
 


バスマヂック

2021-12-21 20:55:45 | Weblog
私が当番のお風呂掃除に使う洗剤のことではありません。



リフォームで据えたP社のバス壁の模様が二通りに見える。ボーッと入浴中に眼前の壁を観ると青空に鱗雲 とみえるのに、ライトが映り込んだ周辺のパターンは雲のホンワリしたものではない。しいて言うなら、雲母の薄片をちりばめたような・あるいは金属顕微鏡組織!にもみえる。よろしい。


劣化

2021-12-20 19:32:47 | Weblog
呼吸機能が低下する私でも、昨日はふぅう~ と云い乍らも愛娘のSUV;CX5 と我が愛車;ホンダ軽トラ の足をスタッドレスタイヤと交換した。CX5のタイヤが重いのは堪えた。本題、軽トラの前輪ドライブシャフト先端にあるボールジョイント部を覆うゴム製ブーツが破損していることに気付いた。特に左側のジョイント部分は完全に露出して、ひどい状況である。経年はもちろん、悪路を好む私の舵角でゴム劣化が進んだのだろう。右側も亀裂部分からのグリース飛散を認める。

 こうなった以上、&まだまだ使い倒したい愛車でもあり、お世話になるM自動車さんにTel相談。診てみましょう に応え、夕刻に鈴鹿山脈>入道ヶ岳に近いお店に持ち込む。ジョイント部分への砂塵などの噛み込みはひどくなさそうだから、長くて数日でブーツ交換を終えるだろう と代車の軽トラも出してくれた。ヤレヤレ、ありがたし。

 ちょいと脱線。
幼い頃に添い寝をしてくれた祖母から何度と聞かされた、お竜さんが堤の人柱にされた竜が池がMさんの近くにある。鈴鹿の山を観たいこともあり龍が池(ウィキで「お竜/竜が池」とされてあるが、碑銘は龍)の碑に立ち寄った。写真の左端近くが入道であるが、Mさんからはすぐそばにもっと大きく望める。灰色の雲の下、寒々しくてよろしい。


門松は

2021-12-18 20:40:41 | Weblog
冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし・・・一休和尚

回復不能の呼吸器病の身で、歩行時にまで呼吸がきつく思う最近となれば、句が分かりすぎるほどに分かってしまう。一週間ほど前の呼吸機能検査等に基いて、数日前の主治医面談によれば私の症例にしては機能低下が大きい と。CTイメージや血液マーカーの大きな変化もないこと、低下は気分的なファクターが起こしておるのでは・元気を出しましょう とされてしまった。ただ、わが身を知るのは自分一人であるから、気分の低下はそれとして身体能力の低下も進み始めておることは認めなければならない。さて、旅程は後どれほどかな・・・

と、昏くなっても神社総代のお仕事はある。時折小雪が舞う今日の午前は、門松作りである。昨日、前総代のK.Yさんは門松主役の竹と立派な雄松=クロマツ とを揃えるため軽トラに同乗、今日は今日で我ら宮世話方の総6名に作り方の指導までしてくれた。おかげで立派な門松が出来上がった。やれやれ

白状すると、私は松の雄松/雌松の区別ができない。いわれるとおり、海岸に生える防風林には雄松が多いのはしっかりした濃い緑の葉や木肌からわかる。ただ、クロマツは枯れやすいのか内陸部の我ら町内近傍では入手困難である。3日前は、近くの篤農Y.Iさんの山で採取させてもらった松がクロマツか自信がなく、夕刻も近い頃になって散策経験がある林道の峠近くの松群生地にまで探しに行ったが揃えることができなかった。どうも雄花/雌花と雄松/雌松とを混同しておるようで、これ以上書き込むと余計に???となるので措く。

 門松作り終えして一安心 のところが、購入品のレシートすら整理していない会計担当の業務怠慢?が明らかとなり、ある世話方から総代&会計の責任を問われ始める。ヤレヤレ・・・仕方なく、せっかくの午後は帳簿チェックの初段としてもう一人の総代と会計を交えてレシートの振り分けからですぞ。なんで俺が糊付けセにゃならんの と愚痴も出ますわ。
 切りの佳いところで目途を付け、後は後日と帰宅してソファに倒れ込む。録画;オックスフォードミステリー「ルイス警部」を観て、少し和む。このあたりのことは明日にでも。とりあえず、主人公のルイスと若い相棒のハサウェイ君をパチリしておきます。ついでにこのシリーズでも車が気になります。今日はモーガンですかな


気は心

2021-12-12 19:41:59 | Weblog
これも時たま使う言葉なのに、柄にもなく考えてみるとワカラン。
精神的な気と心がこんがらがってくる。物質形状の無いもの(奉仕の気持ち など)を人の為に使うとき、決して”気は心”でない。 

”goo辞典;額や量は少ないが、真心をこめているということ。贈り物をするときなどにいう言葉。「―ですから、少しだけ値引きします」” 

検索を続けると、気は心の持ちよう も出てくる。そして、次の解に落ち着いてしまう。ま、そんなものであろう。何かをしないとムズムズする気持ちを落ち着けるために、自分の為にする”気は心”である。私ごときには、ナカナカ人の為に とはまいりません。

解の例=”「気」とは何かをやろうとする思いや、何かを思いつくことを指します。「心」とは喜びや楽しさといった精神作用、また思いやりのことなどをいいます。したがって、このことわざはもともと誰かのためにすることは自分の喜びになる、という意味でした。それが段々と、わずかなことであっても、人のためになにかすることは真心の表れである、という意味になったのです。

生前

2021-12-03 22:02:31 | Weblog
昨夜は柄にもなく「豆を煮るに豆殻を焚く 」と苦手国語系にはしったので、今日も一つ。
 先月末に喪中欠礼ハガキを差し出した。これまでに届いたお知らせや文面テンプレートを参照して、1月に妻の父が亡くなったことを知らせた。簡単なものである。ただ、一つの単語に引っかかってしまった。「ここに生前中に賜りましたご厚情に・・・」の生前である。この世にあるうちのことだから、存命中に が正しいハズ。しかし多くの人々が使用した例から、間違った用法でなさそう。すこしだけ考えた結果、死後は仏さんになるとの仏法由来としか思えない。
 無力ゆえ、WEBに頼ると”浄土真宗では、「念仏」すなわち阿弥陀如来の本願力によって,南無阿弥陀仏の念仏で「阿弥陀如来の浄土に往生する」という言い方をします。往生とは往って生まれて仏に成る こと ”とある。とりあえずは正しい思いをしていたわけだが、やはりすっきりしない。生前贈与など税制や司法の文書にも使われているようだし、仏法の教えがそんなにも広範なのか疑問である。明治以降の神的思想ではどのように表現するのだろう。機会を見つけて宮司さんに聞いて見たいが、めんどうな総代だな と思われるかしら。

豆を煮るに

2021-12-03 09:58:17 | Weblog


夏の頃、ビールに枝豆も好いなぁ と思いだし、ようやく畑に大豆を蒔く。緑の枝豆が欲しいなら春の仕事。無計画な生活を反省するばかりで、自分でも呆れておるから仕方がない。それでも10月の枝豆、娘の連れ合い仏C君が喜んで食してくれた。別居夫婦で、来日してはビール;A社500mL超絶乾燥缶だけの飲(食)生活の彼だから、意外な好みを知って私も嬉しい。
 秋が進み引き抜いた豆木を軒先に干し、豆殻が割れて或いは殻を割って煮炊き用に豆を集めるつもり。今回、妻は味噌を造らないらしい。大豆の殻で思い出すのが『豆を煮るに豆殻を焚く(七歩詩)』。確かめると、曹操・魏の武帝  の二人の息子の文帝・曹丕 と弟・曹植とのうまくいかない関係を曹植が詠んだものとある。苛烈な兄の仕打ちを弟が嘆く詩で、頼朝と義経の関係を挙げた例もあった。 
      煮豆持作羹 漉鼓以為汁 萁在釜下燃 
      豆在釜中泣 本是同根生 相煎何太急
 ”豆を煮て濃いスープを作る 豆で作った調味料を濾こして味を調える
  豆がらは釜の下で燃え 豆は釜の中で泣く
   豆も豆がらも同じ根から育ったものなのに
    豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか”
 煮られる豆が弟で、盛んに燃え上がる豆殻が兄である。

 この意味だったのか、なるほど と刮目する。正統な文意を理解せずに小市民な私の解は違って、今日まで以下のとおり思い込んでいた。単純なモノである。
 「オッ、豆がある。おあつらえ向きに煮るには豆殻までもついている。早速、調理して美味しくいただこう」
欲深い第3者が、本来は仲の良い(同根の)二人を競い合わせ、それぞれの佳いところをすっかり吸い上げて自分のものとする と。ま、私の解釈は浅はかなもんです。先週から大根も漬物用にと干しております。深く耕さなかったためか、はたまたコンポストの塊にぶつかったかして不格好な大根も多かったです。