崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

山路勝弘先生からコメント

2018年12月23日 05時43分10秒 | 日記

 廃紙などリサイクルへ、田辺よし子市議員の働きぶりにリフレッシュされる。新種リンゴをいただいた。美しい、美味しい。明屋書店に寄った。最新拙著2種『慰安婦の真実』『米軍慰安婦の真実』が横開きされていて、「よく売れていますよ」と店員さんの言葉に励まされた。帰宅すると、まだ発売されていない本『植民地朝鮮:映像が語る』に山路勝弘先生からコメントが届いた。引用する。

 日本統治時代、これほど大量に映画が製作されていたことを学び、たいへん興味深かったです。とりかけ、「志願兵」「愛と誓ひ」など、確かに「政治的プロパガンダ」以上のもの、イデオロギーを越えた製作者の精神性が読めるようで、機会があったら、自分も看てみたいと思いました。

また固定コラムの東洋経済日報(2018.12.21)への寄稿文「冥界婚の映画」掲載紙が届いた。

「冥界婚」の映画今は結婚をしない独身者が多くなっているが、韓国のシャーマンによる死後に結婚させる冥界婚とはどういうことだろうと思う人も多い。どこに死者に結婚させる意味があるのか。私の友人の映画監督の北村皆雄氏が韓国の東海岸、慶尚南道清河で1999年に撮影した、「冥界婚」の映画が出来上がった。人間文化財・金石出氏グループの貴重な記録である。死後結婚が何故行われるか、この映画を観て欲しい。
 
先日大阪淀川区にある第七芸術劇場でその映画を鑑賞した後に登壇して北村監督と対談した。ムーダンたちによる巫俗クッの映画を再度視ながら私が20代に調査した時を回想し、考えさせられた。34歳の韓国人男性が遠洋漁業で行方不明になった。彼と失恋自殺をした27歳の女性の位牌を迎え、人形による死後結婚式が行われた。海に落ちた事故なのか、それとも事件なのか?疑わしいことを占うことの思惑で親・兄妹たちはムーダンに占ってもらう、願いの強い儀礼であった。シャーマンたちはそれを重々知って儀礼を行った。
 
海辺の仮設テントで泣き声から始まって哭きで終わった。涙、泣き、哭が続く中でシャーマンが口寄せをする時は緊張感が走った。なぜなら殺されたと占いが出ると、刑事事件となる恐れがあるからである。死者と生者の感情が交錯し、哭の恨のめくるめく世界が現出する。深夜には大勢の人が集まった。神降ろしと巫女の祈りによってクッは和解のムードを作り出し、無事であった。
 
私も自分のカメラで同じクッを撮った。その映画を観ながら私の映像とはどう違うのか気になった。私は古くからムービカメラを現地調査で使ってきている。それらの映像には価値がないのか。プロは大型カメラで撮り、編集し、上映する。彼はこの映画について彼自身もよく撮れていると言っておられた。
 
私のものはハンディなカメラで編集用ではない。私はアマチュアで彼はプロ、研究者と映画監督など対照的である。彼はプロ、私はアマ、その対談であった。私が撮った映像は哭き、泣きが中心であり、何故泣くのか?ただのカタルシスではない。涙と悲しさは、また嬉しさとは,問題点を絞っているが、北村氏は巫俗の霊魂観に劇性に広げている。
 
技術的には編集とノーカットが対照的かも知れないが、もっと根本的な差がある。私の調査ノート作成には映像が必要な基礎資料である。私が平壌のキリスト教会で撮った映像にはゴスペルソングの失敗部分が含まれてリアル感が強い。有名な巫俗研究者のアメリカのケンダル氏はシャーマン儀礼を撮り、そのままドキューメンタリーにした。プロによる編集では消されるはずのものがそのままであり、より重要な資料的価値がある。
 
監督は私に「ムーダンたちとの触れあいを通して、彼らの生き方、芸がわかれば、素晴らしい!トークを広げて頂くだけでもう一冊の本になる」と執筆を誘ってくれた。アマとプロはただの対照ではない。別々なものであり、相互補完的に存在する。



 


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